一柳展也の現在!生い立ち・判決やその後【金属バット両親殺害事件】

金属バット両親殺害事件は1980年11月、一柳展也が自宅で父親と母親を金属バットで殴打した凄惨な事件です。予備校に通う浪人生だった一柳展也は、なぜ凶行に及んだのでしょう。のちにドラマにもなった金属バット両親殺害事件の経緯と判決のその後を追跡します。

一柳展也の現在!生い立ち・判決やその後【金属バット両親殺害事件】のイメージ

目次

  1. 1一柳展也とは
  2. 2金属バット両親殺害事件の概要
  3. 3一柳展也の生い立ち
  4. 4金属バット両親殺害事件の犯行動機
  5. 5金属バット両親殺害事件の裁判とその後
  6. 6金属バット両親殺害事件は受験戦争の末の悲劇だった

一柳展也とは

1980年11月に神奈川県川崎市高津区(現・宮前区)で起きた、金属バットで両親を殴り殺す、という凶行に及んだのが一柳展也(当時20歳)です。当時、一柳展也は予備校に通う2年目の浪人生でした。

金属バット両親殺害事件の犯人

金属バット両親殺害事件で一躍注目を浴びた一柳展也は事件当初、自身の凶行が発覚するのを恐れ、強盗が押し入ったかのように偽装工作まで行いました。しかしまもなく一柳展也自身の犯行であることを認め、逮捕されます。

逮捕後は素直に罪を認め供述をしていますが両親を殺害した後にしてはあまりに無表情で感情のない様子であったようです。両親を撲殺する、という凶行に及んだ一柳展也の心中はどのようなものだったのでしょうか。

金属バット両親殺害事件の概要

神奈川県川崎市で起きた金属バット両親殺害事件は、どのような経緯で起きてしまったのでしょうか。当時は過熱する受験戦争の末路、とも言われた金属バット両親殺害事件の経緯を追ってみましょう。

浪人中の両親とのいざこざが発端

一柳展也は東京大学出身である父親を始め、早稲田大学出身の兄という、エリート一家の一員でした。一柳展也は頼み込んで2年目の浪人生活を送っていた重圧も加わり、勉強にも身が入らなかったようです。父親のキャッシュカードを無断で使用してレコードを購入したり、パチンコや酒に興じるようになっていきました。

1980年11月28日事件前日の深夜、父親が帰宅しキャッシュカードがなくなっていることに気がつきます。一柳展也を呼び出し「キャッシュカードがなくなった。お前だろう。」と叱責されたものの、展也は素直に謝りました。しかしこれをきっかけに、いつも味方してくれる母親から「あんたってダメね」と見離されてしまいました。

怒りの抑まらない父親は今一度強く叱っておこうと展也の部屋へ行きます。すると反省するどころかウィスキーを煽っている展也を目撃してしまい逆上、展也を椅子ごと蹴飛ばし、厳しい口調で怒鳴り散らしました。

「大学もいけないくせに酒なんか飲みやがって!お前のような泥棒を養っておくわけにはいかん。明日にでもこの家を出て行け!」

就寝中の両親を金属バットで殴打

父親の逆鱗に触れてしまった展也は、本当に明日追い出されてしまう、と思い詰めます。厳しい父の叱責、母親の見離した態度に一柳展也はいよいよ精神的に追い詰められ、凶行へと走ってしまうのです。

ウィスキーのボトルを半分くらいまで飲んだ後、一柳展也は両親の寝室へと向かいました。そしてその手には、野球で使っていた金属バットを手に握りしめていました。そして就寝中の両親の頭に5、6回バットを振り下ろし、殺害しています。

その殺害現場は、のちに現場に駆け付けた署員も驚くほどの惨状でした。父親の頭蓋骨はパックリと割れ、天井まで血飛沫が飛び、母親に至っては脳みそまで飛び散っていたそうです。

神奈川県川崎の自宅で遺体発見

一柳展也はこのような凶行をしてしまったような振る舞いとは思えない行動に出ます。犯行に使ったバットは風呂場で洗い、血しぶきを浴びた衣類は隠して服は着替え、家中を荒らして強盗に襲われたように偽装工作までするのです。

その後、近所の家に両親が殺されていることを知らせに走り、自分は第一発見者であるかのように振る舞いました。

一柳展也を殺人容疑で逮捕

そのような偽装工作を行なったにも関わらず犯行の翌日、何かを疑問に感じた親類が一柳展也を問い質したところ、一柳展也自らが行なった犯行であることを認めます。その後、親類の通報により逮捕されました。

逮捕後は素直に罪を認め、自ら進んで詳しい犯行の経緯を話したそうです。しかし現場検証に立ち会った際も淡々としていたらしく、凶器である金属バットを探している署員に「手袋はしなくていいんですか」などとまるで他人事のような言葉を言っていたそうです。

その後一柳展也が両親を殺してしまった、という現実をどのように受け止めていたのか、知るすべはありません。

一柳展也の生い立ち

両親を金属バットで殴り殺してしまった一柳展也とはどんな生い立ちだったのでしょうか。彼の歩んだ足跡を辿ると、何よりも学歴ありきの家庭に生まれたところに始まりがありました。

父親はじめエリート揃いの家族

一柳展也の父親方は揃ってエリート揃い踏みでした。父方の祖父は東京商科大学(現・一橋大学)を卒業後、三菱銀行に務め東京都内の支店長まで務めあげた生粋のエリートだったのです。

また父親の兄弟に至っても東京教育大学(現・筑波大学)、慶應大学を卒業しており、中でも一柳展也の父親は東京大学経済学部を卒業後、旭硝子に就職し、東京支店建材担当支店長を務めるというエリート中のエリートでした。

一柳展也の兄である長男も早稲田大学を卒業して大手企業に勤めている、エリート街道を行く人物です。学歴偏重の家庭に育った一柳展也はたった1人、そのエリートの枠からはみ出ないよう、懸命に努力していたのかもしれません。

高校受験失敗で最初の挫折

1960(昭和35)年東京に生まれた一柳展也は、当時旭硝子の社宅のあった渋谷区で子ども時代を過ごし、渋谷区立渋谷小学校、渋谷区立青山中学校へと進学します。公立とはいえ、当時青山中学は、エリートの登竜門とも言われていた都立日比谷高校への近道であり、越境入学が絶えなかった中学校なのだそうです。

一柳展也が中学へ進学した年、兄は早稲田大学付属高校に合格し進学を果たしています。その兄に追いつき追い越せという気持ちがあったのでしょうか、一柳展也は兄と同じ早稲田大学付属高校を志望しますが、成績は中の中といったところで今一歩追いつかず、3人も家庭教師をつけて受験勉強に励みます。
 

「これだけやって早稲田か慶応に入れなかったら、参っちゃうよなあ」

中学の友人にこんな風にこぼしていたそうです。結果、一柳展也は早稲田大学付属高校にも慶応大学付属高校にも受験に失敗してしまい合格できませんでした。

それでも都内では有数の進学校である私学の海城高校に合格し入学するに至ります。一方、兄は現役で早稲田大学理工学部に合格し早稲田大学への進学を果たします。「志望校に現役合格の兄」を志望校には入れなかった一柳展也はどのような心境で見ていたのでしょうか。

大学受験失敗で予備校生に

一柳展也が海城高校への進学を決めた1976(昭和51)年、父親は川崎市高津区の新興住宅地に新築の家を購入し一家で移り住みます。こういった生活環境の変化の影響もあったのか、一柳展也は1年1学期の中間試験で赤点を4つも取ってしまいました。恐らく燃え尽き症候群のような精神状態だったのではないか、と推察されます。

そしてその後1週間程、家出を試みています。そんな中にあってクラブ活動などには縁のなかった一柳展也ですが、野球は好きだったようでクラス仲間で野球チームができた時、キャッチャーを努めるなどしました。

一柳展也は2年になると私立大文科系コースを選択し、私立有名大学を目指すことにします。1979(昭和54)年の春、高校卒業後に早稲田大学の法学部、商学部、上智大学、中央大学など受験するも全て失敗に終わり、予備校へ通って浪人生活することになります。

事件後わかったことですが、母親は展也の「出来の悪さ」について夫から「お前の血筋だ」「お前の育て方が悪い」となじられていたことが家計簿のメモから見つかりました。一方で「出来のいい」長男や自身の学歴をひけらかすような面があったようです。今で言うところのモラルハラスメントの傾向があったのでしょう。

2度目の浪人が孤独感を募らせる

予備校に通った翌年、早稲田大学、立教大学、明治大学、法政大学、日本大学を受験するも全て不合格となりまたも受験に失敗します。そんな一柳展也に対し父親は「お前は何を目標にしているのか。目標が定まっていないなら、いっそのこと就職した方がいい」と吐き捨てるように言われてしまうのです。

一柳展也も兄も母親もそんな意見は本心ではないことはわかっていました。なんとか兄と母親が父親を説得し予備校へ通わせてもらえるようになります。ところが一柳展也にとって、2浪目の受験、というものが更にプレッシャーとなって彼を襲うのです。安易にそのプレッシャーから逃れるため予備校にもあまり足を運ばなくなってしまいました。

勉強もせずに自ら行き場をなくしていくような自虐的な行動を起こしていきました。お酒とパチンコ、音楽といった享楽に興じることで現実と向き合うこともせず、逃げて回るような生活を送っていきます。結果、友人との交流も途絶え、日に日に孤独感、焦燥感にかられていくようになりました。

この状況に決定的な父親の叱責と母親の「あんたはダメね」という見放した言葉が、一柳展也の最後の一線を超えてしまうきっかけを作ってしまったのです。

金属バット両親殺害事件の犯行動機

一柳展也の生い立ちや家庭環境から犯行動機を考察してみましょう。一柳展也はエリート一家にあって、自分が他の家族に比べ、劣っている、ということを心の奥底で認識していたのではないでしょうか。しかし、親に愛されるためには優秀でなければならない、と子どもの頃から親に教え込まれた価値観のみが全てになってしまっていたのでしょう。

①学歴コンプレックス

なんとなく自分はエリートではないのではないか、という疑念を持ちつつも、学歴ありきの家庭環境に育った一柳展也にとって、他に道はなかったのでしょう。出来の良い兄と常に比較される毎日は、彼にとって自分の不甲斐なさを感じさせるには十分な環境であったと推測できます。

現に兄の通っていた早稲田大学付属高校、大学と受験しているあたりに兄へのコンプレックスの裏返しの気持ちが見て取れます。

兄のように親の期待に応えようとする一柳展也に対し「なぜできない」と攻め立てる親との溝は案外最初から大きかったのかもしれません。いっそのこと学歴なんて関係ない、と割り切れていたらこんな事件は起こさずに済んだことは確かでしょう。

②浪人のストレス

エリート一家にあって、学歴ありきの価値観を信じて親のいう通りに歩んできた一柳展也にとって「大学へ行かない」という選択肢はありませんでした。この選択が更に一柳展也を精神的に追い込んでいきます。

頼み込んで2浪した身の一柳展也は「合格しなければ」という気持ちを更に強くしていたに違いありません。一方でその重圧に耐えきれず、アルコールやパチンコといった遊びに逃げるような行動に出てしまいます。

③母親からの疎外感

徹底的だったのは犯行に及んだ前夜に母親が言い放った「あんたはダメね」という言葉でしょう。一柳展也にとって母親は最後の砦だったのはないでしょうか。一柳展也は子どもの頃は母親に「手のかからない子」と言われるほど育てやすい子どもだったようです。

親からそのような言葉が出る子どもは大抵「言いつけをきちんと守る」「素直」「親に反抗しない」といった親にとって扱いやすい、と感じられる特徴が挙げられます。

恐らく一柳展也にしてみたらきちんと母親のいうことを守ってきた、という自負はあったのでしょう。にも関わらず「ダメね」という言葉で片付けられたことは、父親に怒鳴りつけられたことよりも自分なりの努力を否定された、と感じた瞬間だったのかもしれません。

金属バット両親殺害事件の裁判とその後

金属バットで両親の頭を殴打し殺害する、という凄惨な事件は一柳展也にどのような判決が言い渡されたのでしょうか。判決後の一柳展也の足跡を辿ります。

一柳展也が反省の言葉を述べる

1984(昭和59)年2月に最終弁論で一柳展也はこう述べています。

「世間を騒がせて申し訳ない。兄や親類には僕と血がつながっていることで絶望的な苦しみを与えた。死んでおわびできるならそうしたい」と涙声で述べた。

この反省の弁よりも前に行われた1984年1月の論告求刑では一柳展也が綴っていた日記の一部が読み上げられました。

「父母のことを思い出すと何ともやりきれない思いがする。自分でやったことだからしょうがないと言えばしょうがないが、何とも苦しい。この苦しみからは永遠にのがれられないのだろうか。」

「戦前戦後の苦しい時期に子ども時代を過ごし、子どもを育て、マイホームを手に入れ、そしてその子どもに殺された。これほど悲惨なことはない。全く俺はどうしようもない。」

懲役13年の実刑判決

1984(昭和59)年4月25日、横浜地方裁判所川崎支部にて、金属バット両親殺害事件の被告人である一柳展也に判決が言い渡されます。これまでに17回公判が開かれ、犯罪精神医学の専門家や精神科医による精神鑑定を1年余りにわたり行ないました。

その精神鑑定結果を踏まえた判決が下ります。検察側の求刑が18年だったのに対し「精神鑑定により生まれつき精神的な発達障害を持っていたこと」「逮捕後は素直に自供していることや真摯に反省している」点などを挙げ、懲役13年の判決となったのです。

一柳展也の殺された父親の親友でもあった一柳展也の選任弁護人は温情判決として控訴せず、刑が確定しました。

一柳展也の刑務所内での生活

刑が確定後、一柳展也は千葉刑務所で服役します。刑務所内では看守の心証も悪くなかったようですが、服役仲間には疎まれ、酷いいじめにあっていた、といいます。刑務所内では運動を推奨しており、休憩時間に野球をすることもありました。

ある時、一柳展也がバットを持ちフルスイングする姿を見て服役仲間は青ざめたそうです。刑務所内での一柳展也は特に問題を起こすこともなく1997年、一柳展也は満期出所し、服役を終えました。

現在はインドでボランティア?

現在、一柳展也は何をしているのか、定かではありません。ネット上ではインドでボランティアをしている、といった情報もありますが事実かどうか単なる噂なのか、想像の域を出ません。現在生きているとすれば58歳です。

日本で生活しているのか、それとも噂通り海外で暮らしているのか、一柳展也はどこで何をしているのかはわかっていません。論告求刑で読み上げられた日記に綴られていたように、両親を殺してしまった苦しみを未だ抱えているのでしょうか。

衝撃的な事件がドラマ化される

金属バット両親殺害事件のあった1980年からわずか5年後の1985年4月8日、テレビ朝日系列の「月曜ワイド劇場」で2時間ドラマに仕立て上げ放映されます。キャストには平幹二朗や奥田瑛二、五月みどりといった豪華俳優陣を迎えて製作されました。

当時、この事件は日本中を震撼させた事件でした。ロックバンドBOØWYの『MORAL』に収録された『WATCH YOUR BOY』という曲はこの金属バット両親殺害事件がモチーフとされています。

金属バット両親殺害事件は受験戦争の末の悲劇だった

金属バット両親殺害事件は金属バットで息子が両親を殴り殺すという凄惨な事件であり、到底許されるものではない事件です。しかしその凶行に走った一柳展也の足跡を辿ると、必死に親の期待に応えようとしてきた寂しげな子どもの姿を見ることもできます。

一柳展也は両親にありのままの自分を受け入れてもらえない苦しみをずっと抱えていたのかもしれません。親の信じる学歴を手に入れようと必死にもがく中、「あんたはダメね」「この家から出て行け」という自身を全否定する言葉を浴び、絶望してしまったのでしょう。

未だ学歴偏重の傾向がある現代の日本では、この事件の落とす影は他人事ではないかもしれないのです。

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