【光市母子殺害事件】福田孝行の生い立ち・判決や本村洋さんの現在は

山口県光市母子殺害事件をご存知でしょうか。光市母子殺害事件は本村洋さんの妻と11ヶ月の娘が殺された凄惨な事件でした。犯人は福田孝行で、当時18歳の少年でした。この記事では世間から注目を浴びた福田孝行の起こした凶悪な事件とその生い立ちについて説明しています。

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目次

  1. 1福田孝行とは
  2. 2光市母子殺害事件の概要
  3. 3光市母子殺害事件の犯人・福田孝行の生い立ち
  4. 4光市母子殺害事件の犯人・福田孝行の証言や行動
  5. 5光市母子殺害事件の裁判
  6. 6光市母子殺害事件のその後
  7. 7被害者遺族・本村洋さんの現在は…
  8. 8光市母子殺害事件の犯人・福田孝行は現在服役中

福田孝行とは

福田孝行についてご存知でしょうか。彼は何をした人でどうして世間から大きく注目を集めたのか知っていますか。まずは下記に福田孝行について説明します。

山口県で起きた光市母子殺害事件の犯人

福田孝行は1994年4月に山口県で起きた光市母子殺人事件の犯人です。今から約25年前に起きた凄惨な事件で、当時世間から大変注目を集めました。実は福田孝行は後に大月孝行と名前を変えています。よって、光市母子殺害事件の犯人は福田孝行ですが、現在は大月孝行という名前で記されることがあります。

事件当時18歳1か月だった

山口県光市母子殺害事件が注目された理由の1つは犯人がわずか18歳1ヶ月の少年であったという点です。当時18歳であった福田孝行は残虐で非道極まりない事件を起こしてしまいます。この少年は何故、人の道から大きく外れたことをしてしまったのでしょう。どのような生い立ちの元に育ち、犯罪に手を染めてしまったのか、見ていきましょう。

光市母子殺害事件の概要

ここからは光市母子殺害事件の概要について、福田孝行が犯したおぞましい凶行について見ていきます。

福田孝行が強姦目的でアパートに侵入

1994年4月14日、福田孝行は以前から目をつけていた山口県光市の主婦、本村弥生さんのアパートに排水管の点検を装って入り込みます。福田孝行にとって本村弥生さんは好みのタイプで強姦目的でアパートに侵入しました。

当時福田孝行は高校を卒業して、配管工事の会社に就職していましたがわずか10日目で会社を欠勤し、平日の昼間に事件を起こしました。本村さんのアパートに入り込んだ時は、作業着を着て怪しまれない様に工夫をし、本村さん宅以外にも部屋を周るという用意周到さで犯行に及びました。

23歳の主婦と生後11か月の赤ちゃんを殺害

本村弥生さんを強姦しようと目論み、本村さんの社宅アパートに排水管の点検を装い侵入しました。この時、福田孝行が見たものは弥生さんが赤ちゃんを抱いてくつろいでいる姿でした。本村弥生さんは、本村洋さんと幸せな結婚生活を送っていたのですが、この日それが一変してしまいます。

福田孝行は、弥生さんを引き倒し馬乗りになって、強姦しようとします。そこで、弥生さんから非常に激しい抵抗を受け、揉み合いとなります。福田孝行は自分の思い通りにならないことにカッとなり、福田孝行は弥生さんの頸部を強く圧迫して殺してしまいます。

そして、弥生さんを屍姦するという卑劣な凶行に及びました。さらに、床で火がついた様に泣き叫ぶ11ヶ月の赤ちゃん、夕夏ちゃんを床に何度も叩きつけた上、首を紐で締めて殺害します。

財布を盗んで逃走・のちに逮捕

ついに、殺人と屍姦という大きな罪を犯した福田孝行は、その後本村さん宅にあった財布を盗み逃走します。その後は何食わぬ顔で、盗んだ金でゲームセンターに行ったり、友達の家に行ったりしましたがわずか4日後に逮捕されます。罪状は殺人・強姦致死・窃盗でした。

福田孝行は18歳と1ヶ月で逮捕されました。18歳の青春真っ只中とも言える年齢に、福田孝行は自分本位な衝動により、二人を惨殺・屍姦し、果てに逮捕されたことは、世間に恐怖と悲しみを与えました。

被害者遺族の本村洋さんが犯罪被害者の会を設立

会社から帰宅した本村洋さんがまず目にしたものは妻子の変わり果てた姿でした。妻の遺体は押入れに、娘の遺体は天袋に隠されていました。この時の本村洋さんの悲しみは想像を絶するものであったでしょう。まさか弥生さんと結婚した当時には、こんな悲劇に見舞われるとは微塵も思わなかったはずです。

そしてこの事件で間もなく逮捕されたのは何とわずか18歳の少年でした。
 

犯人が当時18歳の少年であったことから、実名報道は行われませんでしたが、反対に被害者遺族の個人情報はテレビで大々的に報道されました。また、裁判の傍聴席をマスコミが占領してしまい、被害者遺族が傍聴できない、裁判の時遺影を傍聴席に持ち込めないなど、本村洋さんは傷心の中、数々の不当な扱いを受けます。

このように本村洋さんは犯人が18歳とのこともあり、被害者遺族側に不条理なことばかりが続いたため、後に自身の経験を活かし犯罪被害者の会「あすの会」を設立します。本村洋さんは、悲しむばかりではなく加害者や日本の裁判制度の改善点としっかり向き合いたいという意志を持ち前へ進み始めます。

光市母子殺害事件の犯人・福田孝行の生い立ち

さて、1994年4月に想像だにできないほど、凄惨で残忍な事件を起こした福田孝行でしたが、どの様な生い立ちで育ったのでしょうか。またどんな背景の元に卑劣な凶行に及んでしまったのでしょうか。普通では考えられないことを18歳の若さで実行してしまった少年の過去や生い立ちにも必然的に注目が集まりました。

下記に福田孝行の生い立ちについて説明します。

両親の離婚や結婚で複雑な家庭で育つ

まず、福田の父親は、福田の母親を結婚前に強姦し、産婦人科に入院させた過去があったという情報がみつかりました。福田の父親と母親はのちに結婚します。その後幸せな結婚生活を送ったとは言えなかったのかも知れません。そんな家庭で福田孝行は1981年3月16日に長男として生まれます。

その生い立ちはもはや複雑で幸せとは言い難いものでした。福田は当時、父親と母親と福田と弟の4人暮らしでした。福田孝行の父親は彼が幼少の時から多額の借金をし、ギャンブルに明け暮れていたそうです。
 

そればかりか、福田孝行の父親は事あるごとに母親に暴力をふるい続けていました。そんな母親の姿を見てきた福田は次第に母親をかばう様になります。後に母親が亡くなった後、福田の父親は愛人であったフィリピン人女性と結婚をしています。

その後腹違いの弟が生まれますが、福田孝行は父親が結婚したことで、ますます家庭で疎外感を味わうこととなります。

父親による家庭内暴力にあう

そして母親をかばっていた福田孝行自身も父親から家庭内暴力を受けていました。福田孝行は小さな頃から父親に殴られ、親からの愛を十分に受けず孤独に暮らしてきたのです。唯一の心の拠り所は母親の存在だったのかも知れませんが、彼の母親は暴力を受ける事に疲れだんだんと精神を病むようになっていきます。

次第に母親は、自殺未遂を繰り返すようになります。

中1のときに母親が自殺

父親から暴力を受け続けた福田孝行に決定的な事件が起きます。福田が中学校一年生の時に、精神を病んで自殺未遂を繰り返していた母親がついに自殺をしてしまいます。福田の母親は自宅のガレージ内で首を吊って亡くなりました。この時も父親は非情にも、福田少年に遺体の掃除をさせたという情報がありました。福田が育ったのは歪んだ家庭でした。

それはあまりに悲しく、終わりのない地獄のような少年時代だったことでしょう。こうして福田孝行は心を閉ざし、彼の鬱屈とした性格が作られていきました。無論、どの様な生い立ちでも、犯罪を犯さず社会貢献し、生きて行ける人もたくさんいます。同情の余地はないものの、福田孝行もまた親から悲惨で不幸な暮らしを強いられて育ちました。

母親の死後、前述のように、福田孝行の父親はフィリピン人女性と結婚しています。父の結婚の後、福田孝行は家出を繰り返すようになりました。

光市母子殺害事件の犯人・福田孝行の証言や行動

不幸な生い立ちの元育ち、凶悪な犯罪を犯し、その果てに逮捕された福田孝行ですが、その後の証言や言動は狂気に満ちていました。異常と呼ぶにふさわしいような奇行は世間から注目を浴び、後世に語り継がれてきました。

「ドラえもん」発言

2006年6月に広島高裁で被告人質問が行われた際、福田孝行は「自分はドラえもんを信じていたため、遺体を押入れに入れたのはドラえもんに助けてもらおうとしたから」と語っています。これは2000年の第一審、2002年の第二審と行われた裁判で主張することのなかった内容でした。

また、殺害当時11ヶ月だった夕夏ちゃんが泣き止まなかったため「夕夏ちゃんの首に蝶々結びをして泣き止まそうとしたが、紐がきつくしまって死んでしまった」とも話していました。また屍姦したのは、本村弥生さんを生き返らせるための儀式だったと、説明しています。
 

福田孝行は被告人質問をされた当時30歳になっていました。30歳になった人間の発想とは思えないほど、幼稚な内容語り、世間を驚かせました。また、一度聞いたら誰もが意識の中から消せないほど強烈な印象を残す「ドラえもん発言」を支持した23人の弁護団の滑稽な様にも、世間は注目しました。

被害者を侮辱する手紙

福田孝行は「ドラえもん発言」をしたり、夕夏ちゃんの首に蝶々結びをしてあげたなど、おかしな発言をくり返し精神異常者であるように見せかけていました。しかし、福田孝行は一審で無期懲役の判決が出たあと、自分の友達に被害者を侮辱する様な手紙を送っていました。下記は福田が送ったとされている手紙の内容です。

・犬がある日かわいい犬と出会った。・・・そのまま「やっちゃった」・・・これは罪でしょうか

・終始笑うは悪なのが今の世だ。ヤクザはツラで逃げ、馬鹿(ジャンキー)は精神病で逃げ、私は環境のせいにして逃げるのだよ、アケチ君

・2番目のぎせい者が出るかも。

この手紙は福田孝行に反省の色が見られない、として広島高等検察庁は広島高等裁判所に証拠提出をしています。福田孝行は、自分のしたことを自身の育った環境のせいとしていたようですが、昔から彼を知る友達の前には本性をさらけ出してしまったようです。
 

福田孝行に友達がいた、ということに驚く人もいるでしょう。しかし彼の昔を知る人は「面白い少年だった」と証言しています。福田は家庭での虐待を隠すように、外では明るく振舞っていたようです。

そんな福田が獄中から友人に送った手紙の内容は、さらに周囲の人たちを驚かせ、世間から大きなバッシングをうけました。ただしこの手紙は友達同士のやりとりの中で交わされたもので、福田は若さゆえに調子に乗っていたのかもしれません。

来世で被害者女性の夫になるとの妄言も

広島高裁で行われた差し戻し審では、福田孝行が自身に精神鑑定をした専門家に対し「自分は死刑になって来世で被害者の本村弥生さんと再会し結婚する可能性がある」と話していたことが明らかになりました。この証言を聞いていた遺族代表の本村洋さんの気持ちは想像を絶する辛いものだったでしょう。

妄言ともとれるこの発言をどのような意図で福田がしたかはわかりません。ただし、福田孝行は自分の犯した罪について、反省をしているとは言い難い状態であるように見えたことでしょう。それは、福田孝行が不幸な生い立ちの元に育ったため、幼な過ぎる精神の持ち主だったことの証明とも言えるかも知れません。

光市母子殺害事件の裁判

ここからは光市母子殺害事件の裁判について見ていきましょう。この事件は事件以降の世の中に大きな影響を残しています。数々の注目点があった光市母子殺害について、振り返ります。第1審が2000年でしたが、第2審は2002年、その後差し戻し審などもあり、刑が確定したのは2012年でした。

少年犯罪の事件としては、裁判に異例の時間がかかったことも世間の記憶に新しい理由でしょう。

傷害致死罪の適用が争点に

光市母子殺害事件の裁判で論点となったのは傷害致死罪が適用となるかどうかでした。福田孝行は改名して大月孝行となっていましたが、1審の山口地裁、2審の広島高裁での判決は無期懲役、2008年には広島高裁が死刑判決を下していました。ところが、2012年福田孝行の弁護団が広島高裁に死刑判決を不服として再審請求をしました。

これは、福田が本村弥生さんに対して殺意がなかったと弁護団が主張したためでした。

 

福田孝行は、本村弥生さんに近づいたのは自身の死んだ母親の姿を本村弥生さんに重ね合わせていたためと説明しました。本村弥生さんに母親にされるように優しくして欲しかったが、後ろから抱きついたら騒がれたため口を押さえたところ、運が悪く死なせてしまったとなどの説明しました。これは公判の途中から殺意を否定した形でした。

安田好弘弁護士を筆頭とする福田の弁護団は同じく強姦に関しても「不幸な生い立ちや、実母の自殺などにより女性を強姦するに至らない精神の成熟状態だった」などとし、計画的な強姦の容疑を否認しました。

またわずか11ヶ月の夕夏ちゃんに対しても殺すつもりはなかったと主張をしています。福田孝行の弁護団は傷害致死罪が適用されるべきとの見解を示しました。
 

未成年での死刑の是非が争点に

また福田孝行の裁判では、未成年に死刑判決を下すことの是非が争点となり、世論を沸かせました。福田孝行の弁護団は、福田が若く、これから更生の可能性があることなどから福田を死刑にするべきではないと主張し争いました。また弁護団は事件当時18歳だった少年は、年を経て反省を深めていることなどから、更生は十分可能であるとの見方を示しました。

加えて、戦後死刑判決を受けた少年が4人しかいなかったことも、福田孝行に死刑判決を下すかどうかの判断を慎重にすべき点であったことでしょう。福田孝行を精神鑑定して、殺害や強姦の意志はなかったと主張をした弁護士もいました。また光市母子殺害事件を題材とした、本も多数出版されました。

事件当時18歳の少年の犯した罪を、どう裁くのが正義なのか、様々な議論がなされました。

 

福田孝行に死刑判決

こうして様々な議論がなされましたが、2012年3月に福田孝行の死刑判決が確定されます。福田側の弁護団が、死刑判決を訂正するよう申し入れていましたが、それが正式に棄却されたためです。遺族代表の本村洋さんは下記のように語っています。長い歳月かけた戦いの時を経て本村洋さんがようやく勝ち取った加害者の死刑判決でした。

「決して嬉しいとか、喜びの感情はない。彼(F)にとっては大変残念かもしれないが、罪はきっちりと償わなければならない。判決を受け止めてほしい。自分の人生を絶たれてしまうような被害者がいなくなることを切に願います」

無論、未成年に死刑判決を下すことには、様々な有識者からの反対がありましたが、それでも死刑を回避するには至りませんでした。今後も未成年が重罪を犯した時、死刑の判決をするかどうかの是非は問われ続けるでしょう。

また、被害者遺族の本村洋さんが、主張した被害者とその遺族の権利についても近年ではだいぶ保障されるように変わりつつあります。こうして、光市母子殺害事件の裁判は幕を閉じました。

光市母子殺害事件のその後

世間から大きく注目され、多くの人に考える機会を与えた山口県光市母子殺害は、福田孝行の死刑が確定することで終焉に向かいました。その後被害者、加害者がどのようにしているかについては知る人ぞ知るという状況かも知れません。ここからは、光市母子殺害のその後について見ていきましょう。

福田孝行は養子縁組により大月孝行に改名

先にも触れましたが、福田孝行は改名して大月孝行になりました。これには、福田が獄中で結婚したのではないかなど憶測を呼びました。福田は結婚したのではなく大月純子さんの養子に入り、大月孝行という名前になったのです。大月純子さんは日本キリスト教団に所属し、牧師として活動している方です。

大月孝行は、死刑判決が確定し、家族以外が面会できなくなったため支援をしていた大月純子さんが養子にした上、面会をし、精神面で支えています。その中で、大月孝行も改心してクリスチャンになったという情報もありました。事件当時は、人間として未熟だった大月孝行が自分のしたことの罪深さを聖書を通して知ったそうです。
 

複雑な生い立ちで罪を犯し、死刑判決を受けましたが、大月孝行と改名をし、猛省の日々を歩み始めたのかも知れません。彼を支援する数々の支援者がいることも彼が残された日を生きていく上では欠かせないことでしょう。

福田孝行の父親が取材で胸中を語る

福田孝行の父親は以前に息子が起こした事件について取材を受けていました。「息子がしたことだから、息子が責任取るのが当たり前。親は責任をとってやりようがない。僕はそういう主義ですから。」など、終始責任転嫁とも取れるような発言を繰り返していました。その上、自分の息子を擁護する発言をしています。

加害者である側なのに「罪を憎んで人を憎まず」という発言や、息子が死刑になったら「がっかりする」という発言もありました。父親は、息子が養子になって大月孝行と改名したことについてどう感じているのでしょうか。結婚をした訳でもなく、苗字を変えることになった息子について何を思っているのでしょうか。
 

福田孝行には同じ母から生まれた、弟がいましたが事件後行方がわからなくなったそうです。また福田孝行の父親は事件当時、本村洋さんと同じ会社に勤めていたことから、職場を変わることを余儀なくされたことなどを主張し、自分も被害者とでも言いたいような口ぶりだったようです。

メディアに出てきた福田孝行の父親は、他人ごとのように事件に対しての見解を話したに過ぎませんでした。福田孝行の不幸せな生い立ちと、事件を起こしてしまった理由は父親の愛情が不足していたためと考える人もいるでしょう。しかしながら、父親から、被害者遺族への心からの謝罪はないままだったようです。

福田孝行が本を出版

福田孝行が獄中でインタビューに答えて書かれた実名の本『福田君を殺して何になる』が出版されます。本を書いたのは増田美智子というライターでした。福田孝行や周りの人にインタビューを行い、様々な情報を集め、本の出版に踏み切った増田美智子でしたが、紆余曲折あったようです。

まず、福田孝行の実名の本を出版するにあたり増田美智子は福田本人と「死刑回避できるよう尽力する」と約束してインタビューをしました。

ですが、実際に発売された本は死刑が前提ともとれるような内容になっていました。このことから、福田側は憤慨し、出版差し止めを要求、その上賠償請求を起こしています。結果は、福田側が敗訴し、本は差し止めにならず出版されています。
 

被害者遺族・本村洋さんの現在は…

さて、本村洋さんは現在どう過ごしているのでしょうか。2017年に職場の同僚である同じ趣味の女性と結婚をしたという情報が見つかりました。本村洋さんは怒涛の悲しみの日々を経て、自分を支えてくれた女性と新しい人生を歩み始めていました。同じ職場の女性ということから、本村洋さんの会社員としての日常もすべてを知って結婚に至ったのでしょう。

本村洋さんは、現在でも事件当時から勤めている会社で働きながら、事件や少年犯罪についての公演活動を行なっています。

本村洋さんの所属したあすの会は解散

本村洋さんらが設立した犯罪被害者の会、あすの会は2018年6月に解散をしています。これはあすの会が一定の役割を果たしたためでした。あすの会は犯罪被害者の地位向上を訴え続けましたが、課題は後の世の中に託したいとしています。

特にあすの会が活動を行なったことにより、2004年に「犯罪被害者等基本法」が成立されました。これにより犯罪被害者の権利の保障が厚くなり、行政を通じて数々の支援を得ることができるようになりました。本村さんは犯罪被害者等基本法が成立されたことにより「人生の短かった妻と子が生きた証を残せた。」と話していました。

本村洋さんは、妻子を若い時に殺され、なぜ絶望をせずに犯罪被害者の会を立ち上げることができたのでしょうか。事件が起きたあとは、毎日自殺を考えたという本村さんを立ち上がらせたものは一体何だったのでしょうか。

本村洋さんが務める職場の上司が彼を叱咤激励したため、絶望の中でも道を誤らなかったと話しています。本村洋さんが務める会社の上司は、事件に遭い全てを失った本村さんに「仕事をし、納税の義務を果たしながら裁判をすること」を勧めます。

社会に貢献せずに様々な訴えをしても、負け犬の遠吠えのようで誰も耳を傾けない、それより社会人として、闘い続けることが大切、と諭した上司の言葉に本村洋さんは支えられたそうです。次々と責任や納期のある仕事を与えられた本村洋さんは、会社という現実の中に生き、会社から必要とされることで腐らず自分自身らしくあり続けることが出来たそうです。
 

本村洋さんは家族を失いましたが、孤独に闘ったのではありませんでした。会社の人やあすの会などの周りの人から、励され、いばらの道の中にも一筋の光をみつけ、あゆみました。長い裁判の時、不安や怒りに震えながらも闘い抜いた本村洋さんは現在も様々な活動をしています。

光市母子殺害事件の犯人・福田孝行は現在服役中

1994年に山口県光市で起きた光市母子殺害事件の犯人、福田孝行は不幸な生い立ちの元育った少年でしたが、後に改名して大月孝行になりました。そして、2019年現在も広島拘置所に収監されています。事件を起こした時はわずか18歳でしたが、大月の起こした事件の惨さに世間やメディアが驚愕しました。

しかし、大月孝行自身も幼い頃から虐待を受けるなど、複雑な生い立ちであった上、実母が自殺するなどの悲惨な生活を強いられて来たのでした。

 

2000年から始まった裁判は2012年まで続きましたが、大月孝行の死刑判決が確定して終わりました。その間に大月孝行が書いたとされる手紙や、ドラえもん発言などが奇妙奇天烈で注目されました。

人生の途中で命を奪われてしまう様な、少年犯罪の被害者が二度と出ない様、願いたいものです。また悲しみから立ち上がった本村洋さんが歩んだ道筋を後の世にも教訓としてぜひ語り続けて行きましょう。そして、第二の大月孝行のような少年が出ない世の中を目指していきましょう。
 

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