悪魔の詩訳者殺人事件とは!悪魔の詩の内容や犯人は【未解決事件】

悪魔の詩訳者殺人事件とは、サルマン・ラシュディ著の小説『悪魔の詩』を翻訳した筑波大学の助教授、五十嵐一が殺された未解決事件です。『悪魔の詩』を翻訳したことと、事件にどのような関わりがあるのか、何故犯人が捕まらなかったのかなど、事件の内容や経緯をまとめました。

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目次

  1. 1悪魔の詩訳者殺人事件とは
  2. 2殺された五十嵐一助教授とは
  3. 3小説「悪魔の詩」とは
  4. 4浮かび上がる犯人像【悪魔の詩訳者殺人事件】
  5. 5悪魔の詩訳者殺人事件の真相は謎のまま…

悪魔の詩訳者殺人事件とは

悪魔の詩訳者殺人事件とは、1991年7月12日に筑波大学助教授の五十嵐一が大学のキャンパス内で刺殺された殺人事件です。五十嵐一は前年1990年にサルマン・ラシュディの小説『悪魔の詩』を邦訳しており、物議を醸していたこの作品に携わったことが殺害の動機に関係していると捜査が進められました。

しかし、犯人が見つからないまま15年が経ち、2006年7月11日に殺人罪の公訴時効が成立し未解決事件となってしまいました。犯人は外国人の可能性が高いとされ、国外逃亡していた場合は時効は成立しませんが、捜査が打ち切られた現在、犯人を見つけ出すのは一層困難なことです。

筑波大学の五十嵐一助教授が殺された事件

1991年7月12日に筑波大学の五十嵐一助教授が人文・社会学系A棟7階のエレベーターホールで刺殺されているのが発見されました。司法解剖を行った結果、前日に殺害されたものと断定され、現場からは教授の血液型とは別のO型の血痕が見つかり、中国製のカンフーシューズの足跡なども発見されました。

捜査中、五十嵐一の机の引き出しから、殺害前数週間以内と思われる時期に書いたメモが発見されました。これには壇ノ浦の戦いに関する詩が日本語とフランス語で書かれてており、その一節にはフランス語で「階段の裏で殺される」と書かれていました。この内容から、彼自身が身の危険を察知していたのではないかとの憶測が飛び交いました。

2006年に時効が成立した未解決事件

五十嵐一への殺害動機はサルマン・ラシュディの小説『悪魔の詩』を邦訳したことが関係していると推測され、捜査が続けられてきましたが、結局真相のわからないまま2006年7月11日に殺人罪の公訴時効が成立しました。

犯人はイスラム教徒の外国人の可能性が高く、海外に逃亡しているとの見方が非常に強いです。その場合は時効は成立していませんが、イスラーム諸国との関係悪化を恐れる日本政府の意向により、国外の捜査は早々に打ち切られており、今後の事件解決は不可能だと言われています。

殺された五十嵐一助教授とは

五十嵐一(いがらし ひとし)は筑波大学に勤める助教授で中東・イスラーム学者です。東洋思想の大御所井筒俊彦の愛弟子でもあり、十数の言語の読み書きが出来、イスラム思想、数学や医学、ギリシア哲学などを研究していました。

出身は新潟県で、新潟県立新潟高等学校を経て1970年東京大学理学部数学科を卒業すると、理数系から人文系に転身し、1976年に同大学院美学芸術学博士課程を修了しました。その後イランに留学、イラン革命が起こった1979年までイラン王立哲学アカデミー研究員を務めた経歴があります。

熱心なイスラム研究家だった

五十嵐一は中東・イスラーム学者であり、イスラム教や文化を熱心に研究していました。特にイラン王立哲学アカデミー研究員だった経歴もあり、直にイスラム文化に触れる機会も多かったことでしょう。

イスラムに関連する著書も沢山出版しており、亡くなった今でも多くの研究家や学生に愛読されています。『悪魔の詩』の翻訳もイスラム研究に深く携わっていたからこそ翻訳に踏み切ったのでしょう。この本のイスラム圏での評価は確実に知っていたはずなので、熱意を覚悟を持って翻訳に臨んだことが伺えます。

サルマン・ラシュディの小説「悪魔の詩」を翻訳

五十嵐一は1990年にサルマン・ラシュディ著書の『悪魔の詩』という小説を翻訳しました。原作の小説は1988年に発表され、イギリスでは1988年のブッカー賞最終候補やホワイトブレッド賞小説部門を受賞するなど高い評価を得ましたが、その内容からイスラム教圏の国では国家を巻き込むほどの大問題となりました。

それに伴い、イランがイギリスと国交断絶をしたり、本の出版に携わった人物への死刑宣告を行い、実行した人へ多額の懸賞金(当時の価格で日本円にして3億6千万円とも言われる)が与えられると提示されました。

では、何故五十嵐一は『悪魔の詩』を翻訳したのでしょうか。彼は翻訳書を出版したのと同じ1990年に『イスラーム・ラディカリズム 私はなぜ「悪魔の詩」を訳したか』という著書を発表しています。

本の中では部分的には冒涜ととれる箇所があることを認めたうえで、「全体を通して読めばイスラム教への冒涜ではないとわかる、文学的に評価したかからこそ翻訳したのだ」と語っています。

小説「悪魔の詩」とは

『悪魔の詩』の原題は『The Satanic Verses』でイギリスの作家サルマン・ラシュディが1988年に発表した小説です。

内容はムハンマドの生涯について書かれた話で、あらすじは、インド人のイスラム教徒2人がロンドン行きの飛行機に乗り、その飛行機が爆発して乗客が空中に投げ出れ、2人のイスラム教徒はイギリスの海岸に落ちて奇跡的に助かる。という冒頭から彼らがロンドンで様々な問題に悪戦苦闘するという物語です。

イスラム教を冒涜する内容

ストーリの中ではイスラム教経典のコーランを否定するような内容や、ムハンマドの12人の奥さんの名前がそのまま売春婦の名前に使用し、イスラム教を冒涜していると信者から大批判を浴びました。

唯一神を崇めるイスラム教に対し、コーランの中にメッカの多神教の神々を認めるかのような記述があると指摘するなど、その内容はイスラム教批判であると多くの人に捉えられ、結果的に国家を巻き込むほどの大きな問題となりました。

イスラム社会では禁書に

1988年に『悪魔の詩』が出版されると10月にインド政府はこの本を発禁としました。イギリスでは12月2日にマンチェスターのボルトンで8000人のムスリムが本書の発禁を求めるデモを行ない、翌年1月14日にはブラッドフォードで本書を焼くパフォーマンスを行なうなど、この小説は大きな波紋を広げました。

出版に関わった人物に対して死刑宣告も

特に注目を浴びたのが1989年2月14日にイランの最高指導者ルーホッラー・ホメイニーの声明です。彼は『悪魔の詩』の著書であるサルマン・ラシュディおよび、出版に関わったすべての人物への死刑宣告を行いました。

また、それを実行した(関係者を殺した)人物には多額の懸賞金を与えるとし、サルマン・ラシュディはすぐに警察に保護されましたが、イタリアのミラノでは翻訳者が全身ナイフで刺されたり、トルコでは翻訳者が開いた集会を襲撃されて37人が死亡したりと多くの関係者が暗殺されるという事件が起こりました。

浮かび上がる犯人像【悪魔の詩訳者殺人事件】

犯人が見つかることなく時効を迎えた悪魔の詩訳者殺人事件ですが、実際には犯人として何人かの人物の名前が浮上していました。

また、CIAの元職員はイスラム革命防衛隊の対外工作・テロ活動などを行う特殊部隊「ゴドス軍」による組織的な犯行を示唆しており、人が集まるエレベーターホールで襲撃したのも見せしめのためと判断しています。

当時留学中だったバングラデシュ学生

悪魔の詩訳者殺人事件の犯人と最も有力視されていたのが当時筑波大学に短期留学していたバングラデシュ人の学生です。彼が疑われた一番の理由は遺体が見つかった当日の昼過ぎに急に成田から母国のバングラデシュに帰国していたことです。

筑波大学での留学期間中であったのにも関わらず急に帰国したため、当時は警察も彼による犯行を最有力視していました。しかしながら、日本政府がイスラム諸国との関係悪化を恐れたため、捜査は時効前に早々に打ち切られてしまったそうです。

シーア派イスラム教徒のイラン人

他にも有力視されていたのがシーア派イスラム教徒です。理由として、この事件の少し前にイタリアのミラノで、『悪魔の詩』のイラリア語の翻訳者がイラン人と名乗る男に襲われて重傷を負ったことが挙げられます。

この事件があった後、イランの日刊紙が犯行を絶賛していたことや他にもノルウェー、トルコなど各地で翻訳や関係者らに対する襲撃事件が起きた為この事件も一連の流れの中で起こったとされました。

悪魔の詩訳者殺人事件の真相は謎のまま…

多くの犠牲者を出した『悪魔の詩』にはタイトル通り悪魔が宿っていたのかもしれません。その一連の流れの中で起こってしまった悪魔の詩訳者殺人事件は、未解決事件としてその真相は迷宮入りしてしまいました。

五十嵐一助教授はホメイニの死刑宣言の後も「ホメイニ宣言はもう時効だ」と言って地元警察署からの護衛の申し出を断り、無警戒の生活を送っていたそうです。著書のサルマン・ラシュディも警察の保護を受け現在も生きていることなどから彼もまた警察に保護されていたらこのような事件は起きなかったのかもしれません。

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