デーモンコア実験とは!事件の詳細や被曝者のその後【悪魔の実験】

悪魔の実験と言われているデーモンコア実験により物理学者のハリー・ダリアンと科学者のルイス・スローティンは被害に遭ったようです。実験中、プルトニウムの塊であるデーモンコアをどのような扱いをしていたのでしょうか。事件の詳細や被爆者のその後を紹介します。

デーモンコア実験とは!事件の詳細や被曝者のその後【悪魔の実験】のイメージ

目次

  1. 1デーモンコアとは
  2. 2デーモンコア実験とは
  3. 3デーモンコア実験がなされた理由
  4. 4デーモンコアが原因となった被曝事故
  5. 5二度にわたる臨界事件のポイント
  6. 6デーモンコアの実験はその名の通り悪魔の実験だった

デーモンコアとは

1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾して連合軍に降伏しました。アジア・太平洋戦争は15年の歴史にピリオドを打ちました。その6日後、アメリカ合衆国ニューメキシコ州に存在するロス・アラモス国立研究所で恐ろしい事件・事故が発生しました。これがデーモンコアによる最初の被爆事故です。

そして翌年の1946年5月21日、再び被爆事故が起こりました。この2つの事件で24歳の物理学者と35歳の科学者の命が奪われました。そして、それまでルーファスとニックネームをつけられていたプルトニウムの塊はデーモンコアと呼ばれるようになりました。

プルトニウムの塊のこと

プルトニウムとウランは、核爆弾や原子炉の燃料になる危険な物質として知られています。デーモンコアとは、様々な実験に使用するために作り出されたプルトニウムの塊に付けらられたニックネームです。はじめからデーモンコアと呼ばれていたのではなく、最初はルーファスといわれていました。

このプルトニウムの塊の通称ルーファスが、若き科学者と物理学者の命を相次いで奪った事故・事件が発生したことで悪魔の実験に使われた悪魔の核、つまりデーモンコアと呼ばれるようになったのです。

ロスアラモス研究所で研究されていた

大量殺戮兵器である核爆弾は、当時唯一アメリカが所持していたものでした。核爆弾の開発はマンハッタン計画と呼ばれ、優秀な科学者や技術者を総動員した結果作られたものが広島・長崎に落とされた原子爆弾でした。マンハッタン計画の実質的研究の場所になっていたところの一つが、ロス・アラモス国立研究所です。

当時唯一の核兵器保有国であったアメリカは、必ず近い将来に核武装する国が出現するだろうと危惧していました。そこでもっと核爆弾について研究しなければならないと考えていたのです。核兵器の更なる開発のための実験器具のひとつとして、デーモンコアが使われていたということなのです。

デーモンコア実験とは

プルトニウムという危険な物質が取り扱われるのは、研究所ならではのことです。プルトニウムを使った実験が、なぜ悪魔の実験とまで呼ばれるようになったのでしょうか。悪魔の実験といわれるようにいなった原因は何だったのでしょうか。プルトニウムを使った実験が悪魔の実験といわれるようになった経緯を調べてみました。

悪魔の実験と言われる

実験で事故が起こることは十分ありえることです。しかし、命を落とすほどの事故だとすると、それほど多くはありません。しかも、このプルトニウムが危険な物質であることは、当時も知られていたことです。それにもかかわらず、若い物理学者と科学者は研究に没頭し、その結果として命を落としました。

研究者の間で、二人の死後からこのプルトニウムにはデーモンコアという通称が与えられました。また彼らはデーモンコアを使った実験を悪魔の実験と呼ぶようになりました。

科学者が避ける危険な実験

プルトニウムを使った核に関する実験は、安全性を無視したあまりにも危険な実験でした。ロス・アラモス国立研究所に所属していた、1965年にノーベル物理学賞を受賞した物理学者のリチャード・ファインマンが「まるでドラゴンの尻尾をくすぐるようなものだ」と批判しています。

ノーベル賞受賞者のエンリコ・フェルミが「そんな調子では年内に死ぬぞ」と実験に携わる研究員たちに忠告しました。デーモンコアを使った様々な実験は、専門家である科学者たちをしても安全性をまったく考えない非常に危険なものばかりでした。

デーモンコア実験がなされた理由

そもそも、危険な物質であるプルトニウムを作り出したのはなぜでしょうか。また、それを使っての実験は、どうして必要だったのでしょうか。デーモンコアを使った実験が必要とされた理由を調べてみました。

アメリカの権力の維持

太平洋戦争が終結したとき、アメリカは核兵器を所有する唯一の国でした。広島・長崎に落とされた原爆は、アメリカの技術の賜物でした。当時のドイツも、日本も、核兵器の研究が続けられているとアメリカは知っていました。また核兵器が開発されたときは、イギリスとカナダも協力していました。

このため、アメリカは近々核兵器を持つ国が多々現れることを予想していました。アメリカは核兵器の量産とともに、核のことをもっと熟知する必要があると考えていました。つまりアメリカの研究所にいる科学者たちに課せられた課題は、核兵器をさらに強力なものにするための技術の開発でした。それは核燃料をすべて中性子に変換する技術の開発でした。

クロスロード作戦

クロスロード作戦とは、アメリカが1946年7月1日と7月25日に行った核実験のことです。現在はマーシャル諸島共和国に属する、ビキニ環礁で行ったものです。1945年7月のトリニティ実験、8月の広島と長崎に続く史上4番目と5番目の地球上での核爆発です。このクロスロード作戦の目的は、核兵器が戦艦などに与える威力を検証するものでした。

ここで2つの説があります。1つはデーモンコアはクロスロード作戦の1つめに使われたという説です。2つめはクロスロード作戦前に被爆事故が起こったことから、デーモンコアの威力が落ちたと考えられて使われなかったという説です。2つめの説ではデーモンコアは溶かされ、他のコアを作るために再利用されたといわれます。

デーモンコアが原因となった被曝事故

アメリカでは、様々なことに対してニックネームをつけます。ロス・アラモス国立研究所でも、実験や実験器具に通称をつけていました。事故が起こる前のプルトニウムの塊はルーファスといわれていましたが、事故後は悪魔の核という意味のデーモンコアと呼ばれるようになりました。この悪魔の実験について調べてみました。

①物理学者「ハリー・ダリアン」の被曝事故

ロス・アラモス国立研究所で働いていたハリー・ダリアンは若き物理学者でした。彼は爆弾として使用するために適切なプルトニウムについて、そのサイズと密度の関係を研究していました。

プルトニウムやウランの内部では、ゆっくりとした核分裂が起きています。原子核が分裂すると、そのために生じた中性子が放射されます。この放射線が球形のために放出されにくくなると、球の中にある原子にぶつかって核分裂をおこして新たに中性子を放射します。

この繰り返しを連鎖的核分裂反応といい、連鎖的核分裂反応が起こるぎりぎり直前の状態を臨界といいます。デーモンコアが球形をしているのは、臨界になりやすい状態をつくる形だったからです。

ハリー・ダリアンの行っていた実験は、もともと臨界になりやすいプルトニウムを金属ブロックで囲うことでさらに中性子を反射させてもっと臨界にさせてみたらどうなるかという実験でした。しかも、この実験を放射能防御服などを着用せずに、素手で行っていたのです。そして1945年8月21日に、人類初の臨界実験による被曝事故が起こりました。

一瞬の気の緩みから、ハリー・ダリアンは金属ブロックをデーモンコアに直接落としてしまいました。その瞬間、デーモンコアから青い閃光の放射線が放たれ、ハリー・ダリアンは被爆しました。推定約5シーベルトの放射線を浴びたとされています。放射線被爆による致死量は6から7シーベルトといわれています。

ハリー・ダリアンはあわててデーモンコアの周りに積み上げたブロックを取り除きます。この間およそ1分でしたが、たった1分間で致死量を越す放射線を浴びてしまいました。ハリー・ダリアンはすぐに病院へ収容されました。

数日後、手が放射線火傷のために腫れ始めます。被爆した手の皮膚は焼けただれていました。さらに症状は日ごとに悪化しました。被爆事故から25日後、9月15日にハリー・ダリアンは急性放射線障害のために死亡しました。

②物理学者「ルイス・スローティン」の被曝事故

ハリー・ダリアンの同僚の物理学者であるルイス・スローティンは、最後のデーモンコアを使った実験に取り組み始めました。内容はハリー・ダリアンと同じもので、臨界していない状態の核分裂性物質に対して、中性子反射体をどのくらい近づけたら臨界状態になってしまうのかを知るための実験でした。

ハリー・ダリアンの実験との違いは酸化タングステンブロックを使うのではなく、お椀の形に加工したベリリウムを使ったことでした。隙間にマイナスドライバーを入れて、梃子の原理でベリリウムを上下させて放射能の測定を続けました。明らかに安全性に欠ける実験でした。そしてマイナスドライバーは滑って、ベリリウムのお椀はコアにかぶさりました。

デーモンコアは臨界を越えて、ハリー・ダリアンの事故と同じように青い閃光が走りました。ルイス・スローティンは素手でベリリウムのお椀を払いのけました。このとき、ルイス・スローティンが浴びた放射線は推定約21シーベルトでした。この間、およそ1秒の間の事件でした。

即座にルイス・スローティンに放射線による影響が出ました。ルイス・スローティンはデーモンコアが落ち着くと同時に吐き気に襲われ、すぐに病院に運ばれたものの急性放射線障害のために死亡しました。

二度にわたる臨界事件のポイント

ハリー・ダリアンとルイス・スローティンの2つの被爆死亡事故はわずか9ケ月しか離れていません。しかも実験内容はほとんど同じでしたし、またハリー・ダリアンとルイス・スローティンは友人関係でもありました。そこには何か重大なことが潜んでいるのでしょうか。被爆事故ではなく、何か事件のようなものなのでしょうか。

①臨界点の限界を調査

臨界点というのは、爆発が起こるぎりぎり手前の状態のことを指します。その状態のまま爆弾にして使えば、一番威力がある爆弾になります。当時のアメリカは、臨界点を自在に操ることが出来る爆弾を製造したかったわけです。

二度目の被爆死亡事件の後、ロス・アラモス国立研究所でのすべての臨界実験は終了となりました。また、これ以降の臨界実験を行うときは、実験をする科学者が安全なところから特別な実験装置を使って遠隔操作する方法に統一されました。

②人的ミスが引き起こした悲劇

ハリー・ダリアンはブロックをデーモンコアに落として被爆しました。ルイス・スローティンはドライバーを滑らせてデーモンコアを即時臨界させて被爆しました。二つとも、人的ミスが起こした事件です。

ハリー・ダリアンの事故は一日の仕事を終えて一旦寄宿舎に戻り、夕食を済ませた後に再び研究所に戻った夜9時半過ぎに起きました。なぜその時間に戻ったのかの理由は明らかになっていません。また、ルイス・スローティンはマイナスドライバーを使うときに安全ゴーグルや安全手袋などをまったく使わなかったとされています。

いずれも人的ミスが原因といわれる事故ではありますが、謎として語られているものも多くある事件です。

③致死量の放射線

ハリー・ダリアンは事故後25日で、ルイス・スローティンは事故後9日に起きており、いずれも急性放射線障害のために死亡しています。ハリー・ダリアンは5シーベルトの、ルイス・スローティンは21シーベルトの中性子線とガンマ線を浴びています。

ルイス・スローティンは被爆したときに熱波を感じていたといっています。ハリー・ダリアンの手は広島・長崎の原爆記録映画でよく見られるケロイド火傷によく似た腫れ方をしていました。二人とも致死量の被爆を1秒で浴びてしまったのです。

デーモンコアの実験はその名の通り悪魔の実験だった

ルイス・スローティンは戦後、自分が核兵器開発に関わってきたことに対して後悔していました。その矢先の事故でした。ルイス・スローティンは事故が起きたときに、他の研究員を守ろうと素手でデーモンコアからベリリウムのお椀をもぎ取っています。この身体をはった行動がルイス・スローティンを英雄と賞賛されました。

この2つの被曝事故はデーモンコアと呼ばれる1つのプルトニウムが起こしたものです。しかも、ほぼ同じ実験中に起きた事故でした。さらに2つとも人的ミスによる事故でした。さらに悪魔といわれる理由は、2つの事故ともに安全ゴーグルや安全手袋など一切使用しないで、素手で行っていたとされることです。

もとから危険な物質だと分かっていたプルトニウムを安全管理なしに実験していたことも、人的ミスと考えられます。それだけ、アメリカは核に対する優位性を持ちたかったということです。核兵器におけるトップの座を守りたかったということです。

新たな技術に事故はありえることです。危険を顧みず、新たな技術開発を目指す科学者は今でも存在します。ハリー・ダリアンとルイス・スローティンは臨界事故における死者となっていますが、人的ミスが起こした被爆事件ともいるのです。

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