寿産院事件とは!主犯の石川ミユキ・石川猛への判決や犯行動機は

石川ミユキ、石川猛の夫婦が主犯格の寿産院事件は、なぜ長年発覚せず嬰児の大量殺人ができたのでしょう。金に目が眩んで犯行に手を染めていた医師や葬儀屋といった人物もいたのです。なぜそのような所業に出たのか、寿産院事件発覚の経緯から判決のその後までを追います。

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目次

  1. 1寿産院事件とは
  2. 2寿産院事件の発覚から逮捕まで
  3. 3寿産院事件が起きた経緯
  4. 4寿産院事件の裁判とその後
  5. 5寿産院事件では小さな命が犠牲となった

寿産院事件とは

すでに忘れ去られようとしている「寿産院事件」とは一体どのような事件だったのでしょうか。1944(昭和19)年〜1948(昭和23)年という戦中戦後の混乱期に東京の新宿区にある寿産院で起きた嬰児の大量殺人事件のことです。なぜこのような悲惨な事件が起きたのでしょう。時代背景も交え、大量殺人に至った経緯を見ていきます。

嬰児の大量殺人事件

100名以上という犠牲者を出した寿産院事件は多産だった時代とはいえ、このような人数の赤ちゃんをどのようにして集めたのでしょうか。寿産院を経営する石川ミユキ、猛夫妻は「乳幼児を貰い受けます」という新聞広告を出し、経済的、社会的に育てていくことができない親から乳児を貰い受けていたのです。

医師の協力も得て産婆が嬰児を殺害した事件

石川ミユキは1897(明治38)年に宮崎県東諸方郡本庄町で生まれました。県立職業学校を卒業後18歳で上京、東京大学産婆講習科に入学し産婆免許を取得します。1920(大正9)年ミユキが23歳の時、石川猛と結婚し牛込で寿産院を開業するのです。一方茨城県出身の石川猛は志願して憲兵軍曹になったのち警視庁巡査も務めます。

結婚して6年後に猛は警察を辞めミユキの経営する寿産院の稼ぎで暮らしていくことになりました。石川ミユキ、石川猛夫妻の目的はお金でした。自分たちの所業がバレないようにするため、用意周到に周囲の者達を巻き込んでいったのです。

その巻き込まれた人物の一人に嬰児の死因を偽造した医師もいました。巻き込まれた、とはいえ医師自身も賄賂を受け取り引き受けていたのですから、悪の所業に医師も手を貸してしまった、ということでしょう。

寿産院事件の発覚から逮捕まで

寿産院では戦時中から嬰児の殺害をしていたことがわかっています。しかし戦後3年も経ってからこの事件が明るみに出たのは、不幸中の幸いだったのかもしれないのです。

警察が葬儀屋を事情聴取

寿産院事件が発覚したのには、偶然も手伝ったのかもしれません。戦争に負け、焼け野原と化した都会で生活していくには食事もままならなかったことは想像できます。そんな状況下では皆自分が生きていくことで精一杯だったでしょう。

1月12日午後7時半頃、パトロールをしていた早稲田署の警官は、リヤカーに数個のみかん箱を積んで自転車で運んでいる男が目に止まります。不審に思った警官は職務質問することにしました。聞けば、彼は葬儀屋であることがわかりました。

持っていたみかん箱の中身を確認すると、布オムツなどの切れ端が敷き詰められた中になんと嬰児の遺体が入っていたのです。

みかん箱から嬰児の遺体

しかも嬰児の遺体は1体だけでなく6名もの嬰児の遺体が入っていました。念のため葬儀屋に事情聴取を行ったところ「寿産院から依頼があって火葬場に運ぶところだ」というのです。聞けば1947年8月から20体以上、寿産院より依頼を受けて遺体を運んでいることが判明しました。

警官らは寿産院で半年あまりで20名以上も亡くなっていることから怪しいと判断し、葬儀屋の持っていた6遺体を検死したところ、それぞれの死因が解明されました。肺炎が3名、凍死2名、もう1名はなんと餓死とわかり、6名ともに胃に食べ物などが入った形跡がなかったとのことです。

いよいよ寿産院を経営する石川ミユキ、猛の夫婦が疑われ始めます。日を置かずに石川ミユキ、猛の2人に事情聴取し、寿産院で行われていた所業が明らかになるのです。

寿産院を警察が捜索

署に石川ミユキ、石川猛夫妻を呼び、取り調べを行いました。すると寿産院で大量の嬰児が亡くなっていることが判明します。直ちに家宅捜索を行ったところ7名の子ども達がいましたが、1名はすでに亡くなっており、後の6名は1月という真冬の季節にも関わらず、肌着一枚しか着せてもらえず、泣く力さえ奪われる程弱っていたのです。

石川ミユキと石川猛を逮捕

1月15日、石川ミユキ(当時51歳)、石川猛(当時55歳)夫妻は殺人の罪で逮捕されました。夫婦が逮捕されたことで次々に悪の所業とも言える寿産院の実態が明るみになったのです。寿産院に預けられた赤ちゃんの数は240人にもなっていましたが、寿産院で世話もされることもなく殺された赤ちゃんは100人以上にもなっていました。

赤ちゃんを取り上げるはずの産婆となった石川ミユキは、どのような面持ちで預かった赤ちゃん達と向き合っていたのでしょうか。このような所業ができた真意は闇に葬られたままです。

寿産院事件が起きた経緯

助産院を経営し、牛込産婆会の会長まで務めていた石川ミユキがなぜ、悪魔のようなことができたのでしょうか。実は寿産院事件が明るみになった時代背景が色濃く反映されているといえます。当時はまだ中絶が認められていなかったこともあり、望まれないままこの世に生まれてきた子ども達も多くいました。

また戦前戦中は家長制度だったため、あまり子どもの人権といった意識はなく、ないがしろにされてきたこともあります。それは残念ながら現在でも、子ども虐待などが問題になる度に「しつけ」といった言葉で片付けようとする考え方の根底に流れているとの指摘もあります。

戦後の混乱という背景

寿産院事件は、主犯格の石川ミユキ、石川猛夫妻が嬰児の大量殺人に及んだという事件です。戦時中の1944年4月から1945年の終戦を挟み、1948年1月に発覚するまでの間、預かった子ども達を犠牲にすることで私腹を肥やしていました。このような蛮行でも、石川ミユキ、石川猛の両人はこの時代、珍しい存在ではありませんでした。

戦後まもなくの頃は、度重なる空襲で焦土と化した土地しかなく、都会では特に食べるものを手に入れることは至難の技であったことでしょう。それは寿産院に子どもを預けた母親達にも言えることです。

戦争中は国から「産めよ増やせよ」と言われ、空襲や栄養失調などで亡くなった子ども達も多くいましたが、戦後戦争へ行った家長である夫が帰らない中、3人4人も育てていくことは本当に大変だったことは想像できます。

母親が子供を手放す

このように日々の生活も食べ物を手に入れるだけで大変な食糧難の時代でした。まだまだ復興には程遠い状況の中で窮困していたために、子どもが生まれても育てていけない家庭環境であったことも、子どもを手離す親が普通にいた時代背景としてありました。

そんな中、寿産院は子どもを使って金儲けをするため「乳幼児貰い受けます」という新聞広告を出します。1人につき4〜6,000円もの養育費を親から貰い受けた上、子どもを引き取って養育しているということで、東京都から補助金や乳幼児のためのミルクや砂糖の供給も受けていました。

犯行動機は金目当て

石川ミユキ、石川猛夫妻は、親達から養育費と称して当時の金額ではかなりの高額を受け取っていた上に、都から子どものために配給されたミルクや砂糖は子ども達に与えることはなく、闇市へと横流しして荒稼ぎしていました。

しかも子どもを養子にもらいたい人にはお金を支払ってもらい、譲っていたというのです。器量のいい子は500円、そうでもない子は300円という売値で売買していました。警察が家宅捜索に入った時には、赤ちゃんが育てられている、といったような場所には思えないほどの惨憺たる状況だったようです。

子ども達はお風呂にすら入れてもらえず、オムツの処理もきちんとしていなかったために病気になっても治療することもありませんでした。まさに育児放棄といえるでしょう。このような状況下に放置して石川夫婦が儲けた総額は100万円以上とも言われています。
 

寿産院事件の裁判とその後

この寿産院事件はその後、どのような経緯を辿ったのでしょうか。幸いにして救われた子ども達のその後や、逮捕された石川ミユキ、石川猛夫妻の判決はどうなったのでしょうか。寿産院事件のその後を追ってみましょう。

石川ミユキと石川猛への判決

当時、鬼畜と称された石川ミユキ、石川猛の2人への判決は、今から考えるとあまりに軽いのではと思える程の量刑が下りました。1948年10月、東京地方裁判所は主犯格である石川ミユキに懲役8年、石川猛に懲役4年の判決を下しました。その後、東京高等裁判所の判決では、石川ミユキに懲役4年、石川猛に懲役2年の刑が言い渡されました。

同じく殺人罪に問われた助手は無罪になり、寿産院事件の発覚のきっかけとなった葬儀屋は証拠不十分、とのことで不起訴になっています。夫婦2人の出所後の行方はわかっていません。

残された乳幼児はほぼ孤児院へ

生き残った乳幼児達は寿産院事件後、どうなったのでしょうか。運よく助かった彼らは親元に戻される子や養子に出される子もいましたが、半数程の子ども達は孤児院へ預けられることになりました。その後、どのような人生を歩んだのかは、わかっていません。

寿産院事件のあった頃は戦争で両親を亡くした戦争孤児も多くいました。孤児達は駅などで寝泊まりし、靴みがきをして小銭を手に入れる者、時には盗みなどを働きながら懸命に食いつないで生きていました。当時はそんな子ども達をなんとか助けようと働きかける大人は少なく、むしろ排除しようとしていたようなのです。

犠牲となった100名以上の嬰児達の遺骨は、捜索当時倉庫の米櫃から見つかりました。埋葬もされず、そのような扱いだったことに今なら考えられないことですが、世間からは「殺されても仕方がなかった」と言う声が大半だったのです。

実際に殺害された人数は不明

寿産院事件は推定でも100〜169名の赤ちゃんが犠牲となりました。「推定」となっているのは、現在でも殺されてしまった赤ちゃん達の確かな人数は定かではないためです。未だ犠牲となった赤ちゃん達の数がわかっていない、そのこと自体が当時子ども達が直面していた苦難の時代であったことが想像できます。

寿産院事件の犠牲者である嬰児達の亡骸はその後、現場に程近い宗円寺に土葬され、その後無縁塔に合葬されました。現在、土葬された場所には慰霊地蔵が建立されています。
 

他の産院でも同様の事件が起きていた

寿産院事件が起きた当時は、何も寿産院だけが行っていた所業ではないことではありました。寿産院事件から数年後、またしても同じような事件が起きます。新宿にある淀橋産院で61人もの嬰児の栄養失調による死亡が発覚するのです。

こうしたことが繰り返される背景には食糧難だった当時にあって、乳幼児の面倒をみるということで都から補助金がもらえたり、子ども達のためにミルクや砂糖といった配給品があったことが一因でもありました。戦後、その配給品やお金を目当てに産院が乱立することになります。

寿産院事件では小さな命が犠牲となった

戦中戦後に起きた寿産院事件は今では語られることはほとんどありません。しかし今置かれている子ども達の状況を見ると、現在も相変わらず抵抗できない子ども達が犠牲となっている現状が目に付きます。親からの暴力や育児放棄といった虐待により死亡した、という事件が後を絶ちません。

戦後まもない頃と現在の子どもたちの状況を比べると、実は何ら変わっていないのではないか、との声もあります。虐待する親からは揃って「しつけ」「仕方なかった」と言う台詞を聞きますが、寿産院事件が発覚した際も「殺されたのは仕方なかった」と言う世間の声が多く挙がっていたことを考えても、今もそう代わり映えしない状況なのでしょう。

寿産院事件を通して今一度、日本に住む子ども達が、どんな境遇にあっても手を差し伸べられ、幸せになれる社会となるための一歩となることを願いましょう。

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