2019年11月13日更新
栃木実父殺し事件とは!子供による親殺し(尊属殺人)のその後は
娘が実の父親を殺害した、栃木実父殺し事件をご存知でしょうか。子供による親殺しは重罪であった時代に、弁護士の大貫大八が勝ち取ったのは尊属殺人としては異例の判決でした。栃木県矢板市で起きた栃木実父殺し事件の経緯とその後の展開を紹介します。
栃木実父殺し事件とは
「栃木実父殺し事件」と聞いて、どんな事件のことなのかすぐに思いつく人は少ないのではないでしょうか。この事件が起きたのは1968年です。今から50年以上前の事件ですが、世間に大きな衝撃を与えた事件です。この栃木実父殺し事件について紹介します。
栃木県矢板で起きた殺人事件
栃木実父殺し事件は1968年(昭和43年)10月5日、栃木県矢板市で起きました。矢板市は東京から120㎞ほど離れた栃木県の北部に位置し、農林業が盛んな地域です。
子供が親を殺した専属殺人
栃木実父殺し事件はその名の通り、当時29歳の娘(7人兄弟の長女)が53歳の父親を殺害した事件です。当時は、子供が自分や配偶者の親や祖父母、曾祖父母などの直系の尊属を殺害することは倫理上あってはならないことと考えられていた時代でもあり、親殺しである尊属殺人は通常の殺人罪よりも重く捉えられていました。
栃木実父殺し事件の背景から逮捕まで
栃木実父殺し事件は、娘による親殺しというショッキングな事件ですが、その背景にはどういった事情があったのでしょうか。栃木実父殺し事件の経緯を追ってみると、あまりにも不憫で信じられないような事情が見えてきます。この親殺し事件が発生した経緯を紹介します。
大家族の家庭での性的虐待
栃木実父殺し事件が起きたのは1968年の事ですが、この事件を招くきっかけともなった悲劇はその15年も前から始まっていました。その当時、両親と子供7人の9人が狭い長屋で生活していました。父親は仕事熱心なタイプではなく、味噌や雑貨の販売をしていましたがいつも貧しい状況でした。
酒に酔った父親が長女の性的虐待を始めたのは、長女が14歳のときでした。長女は、自分が何をされているのかも分からない程でしたが、すぐ隣で寝ている兄弟を起こさないために息を殺して必死に耐えていたそうです。
そういった行為は一度きりのものではなく、週に1回、多いときは週に3回も、父親は娘を犯していたのです。母親にばらさないようにと脅されていたために必死に耐えていた長女がやっと母親に助けを求めることができたのは、1年もたった後のことでした。
母親の家出で事態は悪化
自分の夫が長女を犯していたと知った母親は、夫に詰め寄ります。母親は控えめで、常に夫の陰に控えているタイプだったようですが、この時は激しく怒りをあらわにしました。ところが父親は悪びれた様子もないどころか、刃物を持ち出して母親に脅しをかけるような状態でした。
焦った母親は、長女を親せき宅に逃がそうとしましたが、父親に見つかり失敗してしまいます。身の危険を感じた母親は、末2人の子供だけを連れて北海道の実家へ逃げ帰ります。長女は母親代わりとなって残された兄弟の世話をするようになります。
その一方で、母親がいなくなったのをよいことに父親の行為はエスカレートし、1日に何度も長女を犯すという悪夢のような日々が始まったのです。
父親の子供を出産
長女が17歳の時に母親が北海道から戻ってきます。母親の実家敷地内に小さな小屋を建て、再び一家9人での生活が始まりました。この当時は今以上に身内同士の繋がりが深かったため、母親やその家族は、父親が長女を犯しているという事実を身内の恥として、周囲に漏れることのないよう監視しようとしていたようです。
しかし、いくら家族が止めようとしても酒に酔った父親の行動は手が付けられない程で、母親の家族に対しても暴力を振るうようになります。そうした最中に長女の妊娠が判明してしまいます。恐ろしくなった長女は、同情してくれた知り合いの男性と共に駆け落ちを決行しますが、すぐに父親に見つかり連れ戻されてしまします。
その後母親が留守にしていた隙をついて、父親は長女と次女を連れて家を出て家を出ます。栃木県矢板市での生活の始まりでした。
ついに親殺しを実行
父親と長女、次女の3人で生活を始めてからすぐに長女が出産します。その後も長女は5回も出産します。そのうち2人は生まれてすぐ亡くなってしまったため3人の子供を抱えていました。さらにその間に5回も中絶しているという有様でした。次女が就職してからは、父親と長女と3人の子供たちで生活していました。
歳が離れた夫婦による普通の家族に見えてしまうような光景でありながらも、この親子の異常な関係は周囲の人々にも知られるようになります。この時代は家長制度が強く女性の人権意識が低かったため、父親をたしなめたり、長女を助けようとする人はいませんでした。この事態が大きく動くことになるのは、長女が29歳の時です。
家計のために印刷工場で働き始めた長女は、同僚の22歳の男性と恋に落ちます。長女は父親に結婚の相談をしますが、逆上した父親は長女に罵声を浴びせます。家出を試みた長女ですが、またもや父親に連れ戻されてしまいます。さらに父親は「出ていくなら子供を殺す」と脅すようになります。
仕事もやめさせられた長女はその後父親によって自宅軟禁状態となってしまいます。限界を感じた長女はついに、口論の末に父親を股引の紐で絞殺してしまいます。父親が残した最後の言葉は「お前に殺されるなら本望だ」だったそうです。
栃木実父殺し事件の弁護士とは
娘が父親を殺害した尊属殺人である栃木実父殺し事件を担当した弁護士は、前例のない大きな活躍によって後世にも名を残しています。一体どんな弁護士であったのかを紹介します。
大貫大八のプロフィール
栃木実父殺し事件を担当して活躍した弁護士、大貫大八について紹介します。大貫大八は明治36年生まれであり、栃木実父殺し事件を担当したころは65歳でした。弁護士として開業した後に宇都宮市議として政界に入ります。労働・農民運動を指導した咎で懲役刑を受けたこともあります。
第二次世界大戦前に満州に渡り、戦後に帰国しています。その後、衆議院議員を一期務めた後は弁護士業務に専念していました。
栃木実父殺し事件の弁護は無報酬
大貫大八が栃木実父殺し事件の容疑者である長女の弁護を引き受けるきっかけとなったのは、ある女性が大貫大八の事務所を訪れたことでした。事件発生から数日経った頃のことです。その頃この事件は、親子喧嘩の末に娘が実父を殺したという単なる親殺し事件として報道されていました。
この女性は、容疑者である長女が父親から長年性的虐待などの酷い仕打ちを受けていたことを語り、長女を救って欲しいと懇願しました。その女性とはなんと長女の母親、殺された父親の妻だったのです。この母親の話に衝撃を受け涙を流した大貫大八は、栃木実父殺し事件の弁護を担当することを決意します。
貧しく弁護料も払えない母親が事務所へ持参したのは鞄いっぱいのジャガイモでした。大貫大八はこのジャガイモのみを受け取って、その後弁護料は一切受け取らずに無報酬でこの事件を担当します。
息子の大貫正一も無報酬で…
栃木実父殺し事件において弁護を担当した大貫大八は、高等裁判所の判決に納得がいかず上告手続きを進めている最中にがんが判明し、入院しなければならなくなってしまいました。そこで弁護を引き継いだのは、息子の大貫正一です。
母親が事務所に弁護の依頼に現れた時には、大貫正一も同席していたため、彼にとっても他人ごとではない事件でした。大貫正一も無報酬で事件の担当を引き継ぎました。
栃木実父殺し事件の裁判
栃木実父殺し事件の裁判は最高裁判所での裁判にまで持ち込まれ、最終的な判決が下ったのは事件発生から5年後の1973年のことでした。この裁判に尽力した弁護士大貫大八・正一親子が勝ち取ったのはどんな判決であったのかを紹介します。
専属殺人の刑期
子が自分や配偶者の両親、祖父母や曾祖父母などの直系尊属を殺害することは尊属殺人と呼ばれ、他の人を殺害した場合とは区別されていました。通常の殺人に適用されるのは刑法199条であり、刑は「死刑または無期懲役、もしくは3年以上の懲役(2005年以降は5年以上の懲役)」です。
一方、尊属殺人の場合は刑法200条が適用され、刑は「死刑または無期懲役」のみという、非常に厳しいものでした。これは子は親を敬うべきという、当時の道徳や社会通念上では自然な考え方でした。ちなみに尊属殺人が適用されるのは子が直系尊属(目上の人)を殺害した場合のみであり、親が子を殺した場合は通常の殺人罪として裁かれていました。
弁護士・大貫大八の主張
弁護士・大貫大八は、事件発生当時に長女が心身共に消耗していたことや長年に渡って父親から肉体的、精神的に苦しめられていたことを主張しました。この父親殺しは自分の身を守るための手段としてのやむを得ないことであり、正当防衛であると主張しました。
専属殺人は不当
裁判の論点は、この栃木実父殺し事件についてのみならず、尊属殺人が果たして日本国憲法に照らし合わせて正当なのかどうかという議論にまで及びます。憲法14条は「すべての国民は法の下に平等である」と規定しています。人はみな平等であるのに、尊属殺人に対しては刑が重くなるというのは憲法が定める趣旨に添っていないのではないかという議論です。
また、この栃木実父殺し事件で殺害された父親は、自分の子供を苦しめ続けていたような人間でした。大貫弁護士は、そんな親としての義務も果たしていなかった父親が尊属殺人という法で優遇され、人権を踏みにじられていた長女のみが重罪に課せられてしまうのでは、あまりにも倫理道徳的に不平等ではないかと主張したのです。
第一審ではこの主張が認められ、事実上の無罪判決となりました。しかしその後の第二審ではこの判決は破棄されました。高等裁判所は、長女は父親をもてあそんだ悪女であるというとんでもない解釈をしたのです。それによって懲役3年6か月の判決が下されました。
執行猶予付きの判決
高等裁判所での懲役刑を不服として、弁護士・大貫大八はすぐに上告します。その後大貫大八はがんにより死去したため、最高裁判所での審理は息子の大貫正一が担当しました。最高裁の審理は、同時期に起きた他2件の親殺し事件である「秋田県姑殺し未遂事件」、「奈良県養父殺し事件」と合わせて行われました。
その審理では、最高裁判所による違憲立法審査権が行使され、尊属殺人の刑罰について定めた刑法200条が憲法に適合しているか否かの審査も行われました。この審査の結果、刑法200条は憲法に違反していると判断されたのです。法律が憲法に違反しているという判決が下ったのは史上初めてのことでした。
これによって栃木実父殺し事件の被告人であった長女は懲役2年6か月、執行猶予3年という判決を受けました。他の2件に関しても減刑や執行猶予付きという判決が下されました。
栃木実父殺し事件のその後
栃木実父殺し事件では、史上初めて違憲判決という前代未聞の判決が下り、被告人であった長女は死刑や無期懲役を免れただけではなく、執行猶予をも勝ち取ることができました。長く苦しめられていた父親から解放され、事件の裁判も終わった後、長女はどのような生活を送っているのでしょうか。
釈放されて旅館で働く
前例のない判決によって自由を得た長女は、旅館の女中として働き始まました。3人の子供たちは施設に入所しますが、週に1度会って一緒に過ごす時間を作っていたようでした。またその後、別の男性と結婚したようです。
父親から酷い仕打ちを受けていた最中でも、朗らかで周りから好かれていたという長女が、ついに幸せを見つけられたと言っても良いのではないでしょうか。
刑法200条の削除と刑法の改正
最高裁判所による違憲立法審査によって、親殺しである尊属殺人について規定した刑法200条は憲法に違反していると判断されました。しかし、この判断によって法律がすぐに改正されたわけではありません。
この違憲判決により、それ以後の親殺しなどの尊属殺人は全て通常の殺人と同じ刑法199条が適用されるようになりましたが、実際に法律が改正されたのは1995年のことです。この1995年の刑法改正では法律条文が口語化され、また尊属殺人に関する規定も削除されました。
栃木実父殺し事件は日本の刑法を改正する契機となった
ここまで、栃木実父殺し事件とその後について紹介してきました。子供による親殺し事件自体は、この当時でも珍しいことではなかったようです。しかし、この栃木実父殺し事件については、殺された父親の所業のあまりの酷さに、マスコミも報道を控えた程だったようです。子が親を敬うことはもちろん大切なことです。
法律を守ること、人を殺してはいけないことも皆知っています。だからと言って、このような非人道的な行為を繰り返していた父親に従わなければならないのでしょうか。この栃木実父殺し事件によって、法律は人を裁くためのみではなく、人を守るために機能すべきだという考えも強くなりました。この事件は日本にの刑法が改正されるきっかけとなったのです。