三毛別熊事件の概要・詳細!7人を食い殺した巨大ヒグマの大きさとは

多数の死者・被害者を出し、日本史上稀に見る悲惨な獣害事件として知られる三毛別熊事件は、巨大な「穴持たず」のヒグマにより引き起こされた事件です。事件に関連する写真と共に、三毛別熊事件の概要・詳細に事件のその後に迫っていきます。

 三毛別熊事件の概要・詳細!7人を食い殺した巨大ヒグマの大きさとはのイメージ

目次

  1. 1三毛別熊事件の概要
  2. 2被害者や三毛別熊事件当時の家の様子
  3. 3三毛別熊事件解決のきっかけとは
  4. 4三毛別熊事件の熊の大きさや事件のその後
  5. 5現在も語られる開拓民を恐怖に陥れた熊事件だった

三毛別熊事件の概要

今から100年ほど前の大正時代、北海道の開拓村に突然現れた巨大なヒグマにより、多くの開拓民が犠牲となりました。恐怖の獣害事件として今も語られる三毛別熊事件とは、一体どんな事件だったでしょうか。

1915年に北海道苫前郡苫前村三毛別であった獣害

三毛別熊事件(さんけべつひぐまじけん)とは、1915年12月に北海道苫前郡苫前村三毛別(現:苫前町三渓)六線沢で発生した熊の獣害事件です。穴持たずのヒグマにより引き起こされたこの事件は、その凄惨さと被害の大きさから、日本史上最悪の獣害事件とも言われています。

「穴持たず」の巨大ヒグマが開拓民の村を襲った

「穴持たず」というのは、巣穴を見つけることができずに冬眠を逃してしまった熊のことを言います。三毛別熊事件のヒグマはあまりに巨大であったため、巣穴を見つけることができず穴持たずとなってしまったのではと推測されます。冬眠できずに穴持たずとなった熊は非常に凶暴さを増すため、古くから特別に恐れられてきました。

その穴持たずの巨大ヒグマが北海道の開拓民の村を襲い、死者を含む多くの被害者を出すこととなりました。

被害者は死者7名重傷者3名

この穴持たずの巨大なヒグマにより2件の民家が襲われました。被害者は太田家・明景家の計10名であり、その内死者は7名、重傷者は3名でした。

被害者や三毛別熊事件当時の家の様子

当時の開拓民の暮らしぶりはどのようなものだったのでしょうか。また、この事件の被害者たちは、どのようにしてヒグマに襲われたのでしょうか。当時の状況を振り返りながら、事件の詳細に迫っていきます。

当時の家の素材を写真で解説

こちらは当時の家を再現した写真です。写真からもお分りのように、丸太やカヤを用いた非常に簡素な造りであり、家というよりは小屋と呼ぶ方がふさわしい住まいでした。

12月9日に太田家を襲った

秋から冬にかけ開拓村では様々な作業に追われます。三毛別も例外ではなく、男性の多くは出払っていました。12月9日の朝、太田家の当主・太田三郎も冬支度の作業のため出かけており、三郎の内縁の妻・阿部マユと、太田家に預けられていた少年・蓮見幹雄の2人が留守に残っていました。

同日の昼、太田家に同居していた長松要吉が食事のために帰宅すると、幹雄の顔下に付着した血の塊と、何かでえぐられた喉元の傷を目にして驚愕します。幹雄の側頭部には親指大ほどの穴が空き、既に幹雄の息はありませんでした。家に残っているはずのマユの気配もなく、ただならぬ状況を察した要吉は助けを求めに走りました。

太田家に駆けつけた者たちは、そのあまりの惨状に衝撃を受けます。そして、窓から土間の囲炉裏まで続くヒグマの足跡を発見し、これがヒグマの仕業であることを知ります。

ヒグマの足跡は部屋の隅まで続いており、窓枠にはマユのものとおぼしき頭髪が絡みついていたことから、ヒグマは部屋からマユを引きずり、土間を通って窓から屋外に出たと思われました。

12月10日に明景家を襲った

当時、明景家には明景安太郎の妻・ヤヨと5人の子供たち(力蔵、勇次郎、ヒサノ、金蔵、梅吉)がいました。また、斉藤家から避難していたタケ・巌・春義の3人、そして、前日にヒグマの襲撃を受けた太田家から逃げてきた要吉の合計10人で留守を預かっていました。

主人の安太郎は出払っており、護衛の者たちも近隣に食事に出かけていました。また、太田家へのヒグマ再出没の報を受けて出動していた者も多く、男手として残っていたのは要吉だけでした。12月10日の朝方、激しい物音と絶叫を聞いた一行は、音がする方へ急ぎ向かいます。

そこで重傷を負ったヤヨと子供達と出くわし、一行は明景家で何が起こっているかを知ることとなりました。重傷を負いながらも命からがら逃げてきた要吉を保護し、一行は明景家に到着しました。二手に分かれ明景家に向け銃を撃ったもののヒグマを仕留めることができず、この時一行はヒグマを取り逃がしてしまいます。

明景家に入った者たちが目にしたものは天井裏まで飛び散った血の海と、無残に食い裂かれた既に息のないタケ・春義・金蔵たちという目を覆いたくなるような有様でした。奇跡的に難を逃れた力蔵とヒサノ、肩や胸、左大腿部に噛みつかれ重症を負った巌を保護し、一行は明景家を後にしました。

家畜や衣類も被害に遭った

この事件による被害は、家畜・衣類にも及んでいます。巨大ヒグマはニワトリなどの家畜を襲い穀物を食い荒らした上、衣類を引きずり出すなど越冬に必要な生活必需品にまで損害を与えました。被害にあった民家は8軒にのぼったと言われています。また、女性が使っていた衣類に対してヒグマは異様なほどの執着を示していたと言われています。

被害者は死者・重傷者のみならず、このような被害を受けた周辺民家も含め、多大な損失を村に与えました。

三毛別熊事件解決のきっかけとは

穴持たずの巨大ヒグマの暴走を人々は食い止めることはできるのでしょうか。人間とヒグマの攻防が続く中、状況打開の鍵を握る一人の男の存在がそこにはありました。事件解決までの全容を明らかにしていきます。

12月11日住民が避難し行政に相談

自分たちではもはや解決しようがないと判断した村の住民たちは、三毛別地区区長や駐在所巡査らも交えて話し合いを行い、12月11日に巨大ヒグマ退治を行うべく警察や行政に応援を要請しました。

12月12日警察を主体とした討伐隊が現地へ向かう

巨大ヒグマ退治の応援要請が北海道庁にもたらされ、12月12日に三毛別に討伐隊の本部が設置されました。近隣の青年会や消防団の協力もあり、200人もの人員が三毛別に集結したと言われています。早速ヒグマ捜索が開始されたものの、ヒグマは藪などに隠れて行動するため発見は容易ではなく、この日は巨大ヒグマを捕らえることはできませんでした。

陸軍が現場に到着

12月13日、事態収拾のために旭川の陸軍も投入され、将兵30名が出動することとなりました。村にかかる橋に撃ち手を配置し、警戒網が張られたその夜、橋で警備に就いていた一人が対岸に不審な物陰を発見し、討伐隊長に報告します。隊長の命令のもと対岸や橋の上から銃を放たれましたが、怪しい影は暗闇にその姿を消して行きました。

マタギ・山本兵吉が心臓と頭を打ちぬく

12月14日にヒグマの足跡と血痕を発見した調査部隊の一行は、ヒグマは銃弾を受けて弱っている可能性があると判断します。いよいよヒグマを仕留めるべく、討伐隊が送り込まれることとなりました。一方、事件を聞きつけていた山本兵吉という熊撃ちも、ヒグマ討伐のために三毛別にやって来ていました。

討伐隊とは別行動を取っていた兵吉は、単独で入った山の頂上付近に巨大なヒグマを発見します。ヒグマに気づかれぬよう距離を縮めながら、兵吉は銃口をヒグマへ向けました。

一発目の弾はヒグマの心臓近くを撃ち抜きましたがヒグマを仕留めることはできず、兵吉は即座に二発目を放ちました。この弾がヒグマの頭部に命中し、ヒグマの息の根を止めることとなりました。銃声を聞き駆けつけた討伐隊が目にしたものは、村を恐怖に陥れた巨大ヒグマの死体でした。

これにより、死者を含む多くの被害者を出し、日本史上最悪と言われた三毛別熊事件はようやく終わりを迎えました。

三毛別熊事件の熊の大きさや事件のその後

多くの死者や重傷者を出し人々が恐怖した巨大ヒグマの大きさが、事件後に明らかとなります。一体、どれほどの大きさだったのでしょうか。また、開拓民たちに平穏な生活は戻ったのでしょうか。事件のその後をみていきます。

熊の大きさとは

このヒグマの大きさは、重さ340kg、身の丈2.7mと言われています。一般的な成人女性の身長は1.5m~1.7cm、成人男性であっても1.6m~1.9mくらいと考えると、ヒグマの2.7mという体長がどれほど巨大であったかは想像に難くありません。上記の体長は四足歩行時の大きさであり、立ち上がったヒグマの大きさは、更に驚異的なものとなります。

三毛別熊事件の熊のその後

射殺されたヒグマはその巨大さゆえに大勢に引きずられ、何とか村へ運ばれたと言われています。一説によるとヒグマは解剖され、その肉は死者への供養という意味で調理をし皆で食べたそうです。また、肝は価格を付け販売され、その販売代金は寄付金として被害者や遺族へ渡されたと言われています。

ヒグマの剥製は苫前郷土資料館にもある

三家別熊事件を引き起こした巨大ヒグマの剥製をご覧になりたい方もいるかもしれません。このヒグマの剥製が置かれている施設等に関しては、現在正確な情報は見当たりませんでした。しかし実際に討伐されたヒグマの剥製ではないですが、苫前町郷土資料館には複数のヒグマの剥製、三毛別熊事件に関する資料や再現された家屋などが展示されています。

三毛別熊事件を非常にリアルに再現しており、剥製と言えどヒグマの巨大さや恐ろしさも十分に伝わり、事件の緊迫感を体感できるとのことです。上の写真は資料館にある再現コーナーを撮影したものです。ヒグマの剥製の写真もあります。一緒に置かれているエゾシカの剥製と比較すると、ヒグマの大きさが一層よく分ります。

現在も語られる開拓民を恐怖に陥れた熊事件だった

今尚語り継がれる恐怖の三毛別熊事件は、当時の開拓民に大きな傷跡を残しました。しかし、荒地を切り開いてきた開拓民たちの力強さは、残された人々に受け継がれています。

事態は解決しましたが、開拓民たちが味わった恐怖は簡単には忘れることはできません。事件後、多くの者が村を去って行き、下流の1軒を除いて最終的に集落は無人の地となりました。三毛別熊事件を題材にした書籍や映画も数多く世に出され、当時の様子や熊の恐ろしさ、人々の恐怖を現在に伝えています。

事件の悲惨さばかりが注目されがちですが、荒廃してしまった村を再び活性化させようと1990年に住民が総出で現場を再現し、現在は三毛別熊事件の復元地として観光スポットとなっています。上の写真は復元地に建てられて慰霊碑で、下の写真は同場所にある事件を再現したモニュメントの一部です。

三毛別熊事件を風化させず、また悲惨な事件だけで終わらすまいとする、住民の方々の前向きさが伝わってきます。

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Sayaka

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