山地悠紀夫の生い立ちから死刑まで【大阪姉妹殺害事件/山口母親殺害事件】

2002年7月、山地悠紀夫という少年が母親を殺害する事件が発生します。さらにその数年後には別の場所で殺人事件を起こしています。2度も殺人事件を起こした山地悠紀夫とは一体どういう人物なのでしょうか。生い立ちから死刑までの経緯を詳しくご紹介いたします。

山地悠紀夫の生い立ちから死刑まで【大阪姉妹殺害事件/山口母親殺害事件】のイメージ

目次

  1. 1山地悠紀夫とは
  2. 2山地悠紀夫の生い立ち
  3. 3山地悠紀夫が起こした事件の概要【山口母親殺害事件】
  4. 4山地悠紀夫が起こした事件の概要【大阪姉妹殺害事件】
  5. 5山地悠紀夫の裁判
  6. 6山地悠紀夫の25年の生涯は死刑によって幕を下ろされた

山地悠紀夫とは

2002年に山口母親殺害事件が発生します。また2006年には大阪姉妹殺害事件という事件が発生しています。この二つの事件は、山口と大阪という離れた場所で起きていますが、犯人は同一人物でした。

山口母親殺害事件と大阪姉妹殺害事件の犯人であり、イケメン殺人犯とも呼ばれた山地悠紀夫とは一体どういう人物なのでしょうか。

山地悠紀夫のプロフィール

山地悠紀夫は1983年8月21日に山口県で産まれ、中学校を卒業した後、進学・就職などはせず、アルバイトをして過ごしていました。その後、16歳になった2000年の7月29日に山口母親殺害事件を起こします。その際少年院に入り数年後には出所しますが、2005年に大阪姉妹殺害事件を起こしてしまいます。

22歳までに3人を殺害した凶悪犯

2002年当時、山口母親殺害事件の犯人である山地悠紀夫は少年だったため実名は公表されていませんでした。しかし2005年の大阪姉妹殺害事件の時には成人していたため、22歳までに3人を殺害した凶悪犯として実名が公表されます。

イケメン殺人犯とネットで話題

大阪姉妹殺害事件で逮捕される際にテレビで報道された山地悠紀夫の姿は、半笑いで不気味な表情をしていました。しかし顔立ちがハッキリとしていた山地悠紀夫は、ネットでイケメン殺人犯として話題になります。「山地悠紀夫以上にイケメンな殺人犯は居るのか」などの声も上がるほどでした。

山地悠紀夫の生い立ち

山口母親殺害事件、そして大阪姉妹殺害事件で3人の女性を殺害した山地悠紀夫ですが、山地悠紀夫の生涯とはどういうものだったのでしょうか。生い立ちから両親との関係や少年時代の過ごし方なども詳しく見ていきましょう。

父親は酒乱

イケメン殺人犯と言われた山地悠紀夫の父親は職を転々としており、酒癖も悪くお酒に飲まれては妻や山地悠紀夫に対して暴力を振るっていました。父親から虐待を受けながら過ごした幼少期でしたが、父親は山地悠紀夫が小学校5年生の時に肝硬変で他界します。

母親は買い物依存

父親が他界してからは母親と2人暮らしをしていました。母親は自宅近くのスーパーに勤めていたそうです。母親が親族と疎遠であったこともあり、誰かが家に訪ねてくることもほとんどありませんでした。また母親は買い物依存症であり、多額の借金があったと言われています。

「悪魔」と呼ばれイジメられる

山地悠紀夫は学校で目立つタイプではなく、交友関係も狭かったといいます。また家庭が貧しく、教材費の支払いが滞っている科目もありました。家庭科の授業では調理実習で作った料理を食べる資格がないと教師に言われ、作った料理を捨てさせられたという過去があります。学生時代は「悪魔」と呼ばれイジメられることもありました。

中学校はほぼ不登校

中学生になっても「悪魔」と呼ばれるイジメは続き、中学2年生になる頃には不登校になっていきます。部活は卓球部に入っていましたが顔を出すことはなく、幽霊部員となっていました。学校の行事である修学旅行なども参加することはなく、3年生になると3分の2近くを欠席するようになります。

中学校卒業後の進路について「高校に行きたくない」と言っていた山地悠紀夫は、とある紡績会社の面接を受けましたが、不合格となり就職先は見つかりませんでした。

新聞配達をしていた

中学校卒業後、知人に新聞販売店を紹介してもらい、新聞配達をして働くことになります。一度やめたこともありましたが、2か月後に復職をしています。新聞販売店での仕事は真面目にこなしていたようで、9万円の給料の半分を家におさめていました。

事件を起こす直前には2日続けて無断欠勤をし、2日目は同僚が自宅まで迎えに来たことで途中から出勤しています。事件直前には母親と同年代ぐらいの女性に、「もうどうしようもないところまで来ている」と母親のことを打ち明けていました。

また、その日の夕方には同僚に対し「母親が借金している。何に使っているのか聞いても答えてくれない」と漏らしていました。

山地悠紀夫が起こした事件の概要【山口母親殺害事件】

山地悠紀夫が最初に起こした事件である山口母親殺害事件の概要とは一体どういったものなのでしょうか。山口母親殺害事件の動機や経緯を詳しく紹介していくとともに、事件のその後、山地悠紀夫がどうなったのかも見ていきましょう。

母親とのいざこざ

母親の給料日には必ず2人でカツ丼を食べていたりと、山地悠紀夫と母親の仲は一見良好に見えたそうです。しかし2000年には母親の借金を取り立てるため、男性が自宅のドアを蹴りながら大声で騒ぐという出来事が起こっています。

母親は公共料金の滞納をしたことがあり、近隣の人からも数万円ずつ借金をしていました。山地悠紀夫が母親の借金を知ったのは6月で、額について山地悠紀夫は「びっくりするくらい」と話しています。

また、母親が再婚するという話も出ており、山地悠紀夫は同僚に対し「僕は邪魔者だから家を出る」と話をしていました。その準備もすでに始めており、勤めていた新聞販売店にアパートを借りたいので時給を上げてもらいたいと頼み込んでいます。

さらに配達件数を増やすため、中古のバイクを購入しています。そのバイクは山口母親殺害事件が起きていなければ、7月末に届く予定となっていました。

実母を滅多打ちにして殺害

2000年7月29日の午後9時頃、山地悠紀夫は母親と口論になります。口論の原因は、当時山地悠紀夫が交際をしたいと思っていた女性に対し、母親が無言電話をかけたことによるものです。山地悠紀夫は母親に問いただしましたが、母親が認めることはありませんでした。

母親の借金のことも絡んで次第に口論は激しくなり、母親が山地悠紀夫に「出て行け」と言い放ちます。これにカッとなった山地悠紀夫は、母親に暴行を加えます。完全に頭に血が上った山地悠紀夫は、金属バットを使い母親の頭部と顔、胸などを滅多打ちにして殺害します。

自ら110番通報

母親を殺害した直後ではなく、2日後の7月31日午前1時頃に山地悠紀夫本人が山口署に電話をかけます。山地悠紀夫は電話で「母親を殺した」と言いました。すぐさま山口署員が自宅へ急行し、山地悠紀夫を殺人容疑で緊急逮捕します。

少年院へ入る

「客観的に見て許されないことをしてしまった。母が抱えていたものをもっと説明してくれていれば、違う展開になったかもしれない」

山口母親殺人事件で逮捕された時の山地悠紀夫は投げやりな態度が目立っていました。弁護士は必要ないと言い、派遣された弁護士と接見した際もすぐに接見室から退出してしまいます。この時山地悠紀夫は、上記の言葉を残したと言われています。

動機に酌量の余地があり、計画的な非行ではなく、家庭環境に大きく起因していることなどを考慮すべきだ」「長期間の矯正教育を受けさせるのが適当であり、年齢的に見ても矯正は充分可能」

9月14日、山口家庭裁判所は上記のように判断し、山地悠紀夫を中等少年院送致とする保護処分の決定を下します。しかし実際には3年2か月という短い期間で出所しており、「長期間の矯正教育」を十分に行えていなかったのではという意見もあります。

山地悠紀夫が起こした事件の概要【大阪姉妹殺害事件】

2005年11月17日午前3時40分頃、大阪市浪速区塩草のマンションの一室を焼く火災が発生し、そこに住んでいた姉妹が室内で発見されます。被害者の2人は血を流して倒れており、胸や顔などに複数の刺し傷がありました。2人は病院に搬送されますが、まもなく死亡が確認されます。

少年院から出所した山地悠紀夫は、母親を殺してから次の事件である大阪姉妹殺害事件を起こすまでの間をどのように過ごしていたのでしょうか。出所後の生活から大阪姉妹殺害事件へとどう繋がっていくのか見ていきましょう。

ゴト師グループに入る

2003年10月、先ほどご紹介した通り、少年院からわずか3年と2カ月で仮退院し、2004年3月に本退院します。この時山地悠紀夫は、「法律を守ろうとはそんなに思っていない」と口にしていました。

そのため仮退院に関して山地悠紀夫を間近で見ていた精神科医は、更生できるのかどうか疑問を抱いたと言います。またその旨を岡山県公安委員会に提示していたそうですが、なぜか仮出所の許可を出してしまいます。

その後、山地悠紀夫はパチンコ店に住み込みで働き始めます。後に友人の紹介でパチンコやスロットで不正な大当たりを出すゴト師グループに加わり裏家業を開始しました。2005年3月に不正が発覚して逮捕されますが、起訴猶予となっています。

山地悠紀夫はその後もゴト師を続けようとしますが、仲間からは「仕事ができない」と見放されるようになります。この頃から山地悠紀夫は自分でも向いていないと口にするようになりました。

山地悠紀夫は事件直前の11月11日から、ゴト師グループが拠点としていたマンションの一室に身を寄せるようになっていました。しかしゴト師グループが活動拠点を移動し、稼ぎが上がらなくなってきたこともあり、ゴト師グループの拠点から離れようとしています。

被害者はマンションの住人

山地悠紀夫が起こした2つ目の事件である大阪姉妹殺害事件の被害者は、ゴト師グループの拠点と同じマンションに住む2人の若い姉妹でした。被害者である姉は飲食店に勤務しており、お金を貯めてブライダル関係の店を持ちたいと言っていました。

もう一人の被害者である妹は、働きながら介護ヘルパーを目指しており、姉の家で同居していました。年が明ければ成人式を迎えることから、成人式の予定や準備の話を母親としたばかりだったそうです。

事件直前の3日間、山地悠紀夫と思われる人物がマンションに現れたところを複数の住人が目撃しており、住人は「メガネをかけリュックを背負った若い男がうろういていた」と証言しています。

また事件前日の11月16日未明、被害者である姉妹が住んでいた部屋の電気だけが2度にわたり停電します。このマンションでは各階にある配電盤のスイッチで電気の状態を操作することが可能となっていました。点検した電力会社の社員は、姉妹の部屋のスイッチがいたずらされたと証言しています。

姉はマンションの配電盤周辺で他の住人が証言していた同じ格好の男を目撃しています。またそのことを勤務先の同僚や客に打ち明けていたようです。事件当日の午前1時頃、仕事を終えた姉は、近くの店で勤めている妹と待ち合わせ、一緒に店を出て家路につきます。

一方の山地悠紀夫は、14日にはゴト師グループの活動拠点であったマンションを出て、マンションから400m離れた神社の倉庫で寝泊まりを始めました。後にこの倉庫から凶器となった刃渡り12cmのナイフが発見されます。

姉妹を立て続けに強姦・殺害

事件当日、山地悠紀夫はナイフやハンマーなどを持ち、被害者の姉妹が住むマンションへ向かいます。家へと帰宅する姉を追いかけ、帰宅したと同時に家に押し入ります。そのまま姉を部屋に押し込み、ナイフで胸を刺した後に強姦しています。

10分後に遅れて帰ってきた妹も同様に胸を刺し、姉のすぐそばで強姦しました。その後ベランダに出て煙草を吸った後に、姉妹の胸を突きさしてとどめを刺しています。

放火して逃走

姉妹にとどめを刺した後、現金5000円や500円玉貯金箱などを盗み、証拠隠滅のためにライターで部屋に火をつけて逃走します。その場から逃げた山地悠紀夫は、奪った小物入れを持ち歩き、ライターなども所持したままでした。

事件前日の16日頃から、マンションに隣接している食品会社の壁にへばりつく山地悠紀夫が目撃されていました。そして12月5日に建造物侵入容疑で逮捕され、「寒さをしのごうとした」などと供述していました。その後の取り調べで12月中頃、被害者の姉妹を殺害したことを自白します。

山地悠紀夫の裁判

「母親を殺したときの感覚が忘れられず、人の血を見たくなった」「誰でもいいから殺そうと思った」

警察の調べに対し、山地悠紀夫は上記のように供述しています。弁護士にはまた下記の様にも語っています。2006年5月1日、住居侵入、強盗殺人、銃砲刀剣類所持等取締法違反、建造物侵入、非現住建造物等放火の罪で起訴され、大阪地裁で初公判が行われました。その時の山地悠紀夫の証言や様子を詳しく見ていきましょう。

「ふらっと買い物に行くように、ふらっと人を殺しに行ったのです」

刺すことで性的興奮を覚えていた

「返り血を流すためシャワーを浴びたら、射精していたことに気づいた」

大阪姉妹殺害事件の取り調べの際、山口母親殺害事件の時には述べていなかった供述もしています。山地悠紀夫は母親を殺害した際、上記の様に述べていました。

2006年5月1日に行われた初公判では、山地悠紀夫の供述が検察により読まれます。その内容は、被害者の二人を「刺す度に性的興奮が訪れた」といった内容でした。

母親を殺害した時の状況も話す

5月12日には、犯行の理由について「人を殺したい欲求があった」と述べており、母親殺害との繋がりについては、「自分では判断できない」と答えています。また、被告人質問の際には「人を殺す事と物を壊す事は全く同じ事」と述べています。

責任能力ありの精神鑑定

「人格障害(非社会性人格障害、統合失調症質人格障害、性的サディズム)である」とする完全な責任能力を認める精神鑑定書を証拠として採用

6月9日から10月4日までの約4カ月の間、山地悠紀夫の精神鑑定が実施されます。弁護側は山口母親殺害事件の際に医師が診断した結果から「発達障害の疑いがある」と主張しますが、裁判長はそれを否定します。10月23日には精神鑑定書を証拠として採用し、最終的には上記のように判断されました。

自身も死刑執行を望んでいた

大阪姉妹殺害事件で殺害された被害者の遺族は、「被告に2人と同じ苦しみを与えたい」と極刑を求めます。11月10日に検察側は「犯罪史上、きわめて凶悪で冷酷な犯行。極刑以外の選択はありえない」と、死刑を求刑します。

山地悠紀夫自身も死刑執行を望んでおり、自身に対し「生まれてこない方がよかった」と話していました。また、山地悠紀夫は「守るものも失うものも、居場所もない。引き留める人もいないなら、やりたいことをやってやると考えた」と、本人も死刑を望んでいたように思わせる発言をしています。

求刑通り、12月13日に死刑判決が下されました。死刑が決定する瞬間、山地悠紀夫は真っ直ぐに前を見据えたまま微動だにしませんでした。判決後、山地悠紀夫は「控訴する考えはない」と弁護人に話をしていましたが、12月26日に弁護人権限で控訴します。しかし、翌年の2007年5月31日に山地悠紀夫被告本人が控訴を取り下げ、死刑判決が確定します。

判決後に裁判長は遺族の悲しみについて考え、遺族の苦しみを少しでも理解してほしいといった旨を山地悠紀夫に対し語りました。

山地悠紀夫の25年の生涯は死刑によって幕を下ろされた

死刑確定から2年経った2009年7月28日に、大阪拘置所で山地悠紀夫の死刑が執行されています。20代の死刑執行はおよそ30年ぶりと言われていました。極刑である死刑を求刑し、死刑が執行されても亡くなった被害者は帰ってきません。

人を殺してしまうという罪は許されないことですが、事件の背景には幼少期の家庭環境による心のしこりが関係していると語った人もいました。また、幼い頃にできてしまったしこりを解消するのも成長すればするほど難しいとされています。事件の加害者である山地悠紀夫自身は、下記のように語ったと言われています。

「判決が決定されて、あと何ヶ月、何年生きるかは私には知りませんが、私が今思う事はただ一つ、『私は生まれてくるべきではなかった』という事です。今回、前回の事件を起こす起こさないではなく、『生』そのものが、あるべきではなかった、と思っております。」

弁護人は「被告の閉ざされた心をこじ開けられなかった」と語っていました。同じような事件を二度と起こさないよう、家庭環境と教育面の見直しや、徹底した管理が必要だということに気づかされる人々もいました。

山地悠紀夫が自分の過ちや人生から立ち直ろうとし、その時にもしも誰かが支え、寄り添うことができていれば、山地悠紀夫は違う人生を歩んでいけたのではないのでしょうか。快楽殺人という言葉が出てきはじめ、その真似をしたかったのか、自身の人生にさようならをするために死刑を望んだのか、今となってはもう分かりません。

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この記事のライター
なぁこ

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