福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件!メモの内容や生き残りは?

福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件は、1970年夏の北海道で起きたヒグマによる獣害事件です。5人のうち生き残りは2人でした。遺体のそばに落ちていたメモはその悲惨な体験を残していました。福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件について調べてみました。

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目次

  1. 1福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件とは
  2. 2福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件の経緯
  3. 3残されたメモとは【福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件】
  4. 4福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件のその後
  5. 5福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件で得た教訓

福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件とは

福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件とは、1970年7月に北海道日高山系カムイエクウチカウシ山(標高1979メートル)でおきた日本国内史上4番目に大きな被害を出した獣害事件です。福岡大ワンゲル部員日高山系遭難事件などとも呼ばれますが、ヒグマが5人の大学生に襲い掛かり3人が犠牲者になった事件のことです。

1970年に起きた獣害事件

福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件は、1970年7月26日から29日の間に起こったとされます。福岡大ワンゲル部5人による登山でしたが、ふもとの派出所などに登山計画書や食料表、装備表などもきちんと提出している万全な態勢のはずでした。

獣害事件とは人間以外の哺乳類が人間を襲った事件のことを指します。1978年の札幌丘珠事件、1915年の三毛別熊事件、1923年の石狩沼田幌新事件に続くヒグマによる獣害事件が、この福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件です。

福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件の経緯

福岡大ワンゲル部所属の5人のグループは、リーダーの竹末一敏(経済学部3年で20歳)、サブリーダーの滝俊二(法学部3年で当時22歳)、興梠盛男(工学部2年で19歳)、西井義春(法学部1年で当時19歳)、河原吉孝(経済学部1年で18歳)でした。

登山計画も万全で装備も決して不備も無く登山経験も積んでいたグループに襲い掛かった福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件は、一体どのように起こったのでしょうか。

福岡大ワンゲル部5人が日高山系縦走を目指す

北海道日高山脈は標高2000mほどの山々が連なり、夏でも雪が残る登山家には有名な場所です。福岡県の大学に通う5人にとっては、憧れの山でした。福岡大ワンゲル部の彼らは標高1754mの芽室岳から標高1736mのベテカリ岳を尾根伝いに登る約20日間の登山計画を立てました。7月14日の午後には計画とおりに順調に登山開始をします。

ヒグマの出現

7月25日午後3時20分ごろ、福岡大ワンゲル部の5人は中間地点である標高1979mのカムイエクウチカウシ山に差し掛かりました。ここでテントを設営します。午後4時半ごろ、夕食後に5人がテントの中にいたときに、7m先まで近づいているクマを発見します。このときの5人は誰もヒグマを怖がっていませんでした。

やがてヒグマはテントまで近づいてきます。テントの外にあった荷物を物色し、荷物の中にあった食料などを漁り始めました。5人はラジオの音量を上げ、火を起こすなどしてヒグマを無事追い払いました。

夜9時過ぎ、疲れて眠っていた5人はヒグマの鼻息で目を覚まします。ヒグマはテントにこぶし大の穴を開けた後、いなくなりました。恐怖を感じた5人は2人ずつ2時間交代で見張りを立てることにしました。

ヒグマの襲撃

7月26日午前3時、5人は起床しました。とはいえ、誰も眠れませんでした。4時30分ごろ、テントの中にいた5人の前に再びヒグマが現れます。執拗にテントを引っ張り続けるヒグマのため、5人はテントを捨て何も持たずに逃げ出します。ヒグマはテントを引き倒し、再び荷物の中の食料を漁りました。

リーダーの竹末の判断で、7時すぎにサブリーダーの滝と河原の2人が救助要請のために下山を開始します。2人は途中で同じ境遇で下山中の北海道学園大学のグループに出会います。そこで滝と河原は救助の伝言を頼み、3人のところへ戻ることにしました。

一方、残っていた3人は荷物が気になっていたのでがテントに戻りました。ヒグマはいなかったので、荷物を取り戻して別の場所へ移動します。移動中に鳥取大学のグループと中央鉄道学園のグループとに出会います。

午後3時過ぎ、合流した5人は夜が迫っていたため安全なところでテントを張ります。寝支度をしていたところに再びヒグマが現れます。午後6時半ごろ、危険を感じた5人は鳥取大学のテントに向かって逃げます。最後尾にいた河原がヒグマに襲われます。鳥取大グループも5人の声が聞こえたことで事情を察知し、焚き火やホイッスルを鳴らしたりします。

鳥取大グループは5人のために荷物とテントはそのままにして、救助を呼ぶために下山します。暗闇の中、福岡大ワンゲル部リーダーの竹末は滝と西井と合流しますが、興梠だけははぐれてしまいます。興梠は竹末の声が聞こえていましたが、近くにヒグマがいたために動くことも声を出すこともできなかったのです。

救助を求め避難

合流した福岡大ワンゲル部の3人は暗闇のためとヒグマの恐怖のために、鳥取大グループのところへはたどり着けませんでした。仕方が無いので3人は近くの岩場に身を隠します。

7月27日の朝に目覚めると濃い霧が発生していて、3m先も見えないほどでした。午前8時、3人は救助を求めて下山します。出発から15分後、竹末の2m前にヒグマが現れます。竹末は走って逃げますが、ヒグマが追いかけていきます。その間に2人は必死に下山します。午後1時、福岡大ワンゲル部の滝と西井の2人は五ノ沢砂防ダム工事現場にたどり着きます。

生き残りは2名

滝と西井が中礼内駐在所に保護されたのが午後6時でした。5人のうち生き残りは滝と西井の2人だけでした。残り3人の救助は、時刻が午後6時を過ぎていて暗くなっていたことから翌日開始ということになりました。翌日の7月28日早朝、ハンターたちによる救助隊が結成されて残る3人の捜査が始まりました。

3名は遺体で発見

警察、山岳連盟など100人が捜索にあたりました。捜査が始まって翌日の7月29日に河原と竹末の遺体が発見されました。さらに7月30日には興梠の遺体が発見されました。どの遺体も衣服を剥ぎ取られていました。裸にベルトだけという無残な状態で、顔半分がなかったり、内臓が引き出されるという捜索隊が絶句するひどすぎる状態でした。

悪天候のためと遺体の状態があまりにも酷いために、遺体を山から下ろすことはできませんでした。このため3人の遺体は現地で荼毘にふされ、遺族の方には遺骨が手渡されることになりました。翌年になって、血痕が付いてぼろぼろになったテントやカメラ、登山靴などの遺品の多くが回収されました。

残されたメモとは【福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件】

この福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件が害獣事件の中でも特に衝撃的だったのは、事件の様子を伝える生々しいメモが存在したためです。いったいどんなメモだったのでしょうか。

テントで発見された

7月30日、興梠は鳥取大グループが残したテントのそばで無残な姿になっている状態で最後の犠牲者として発見されます。遺体のそばには、最後は恐怖で手が震えながらも死の直前まで必死に書き残した興梠直筆のメモが落ちていました。

興梠に限らず、今回の福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件の最大の問題点は、荷物を取り返しにテントに戻ったことといえます。ヒグマの習性の一つに独占欲があげられ、一度得たものへの執着心が非常に強く、必ず取り返そうとします。

5人が初めてヒグマに出会ったときに、テントを捨て下山していたら被害には合わなかったのです。興梠は、たどりついて逃げ込んだ鳥取大の残したテントから出られませんでした。ヒグマは興梠の匂いを追い、興梠のいるテントの周りをうろついていたからです。

そもそも、最初の襲撃のときになぜ5人は下山しなかったのでしょうか。これは後に福岡大学が発表した報告書の中に3つの原因が考えられると書かれていました。1つめは荷物の中にあった貴重品が無いと判断したためと書かれています。

2つめは装備を持ち帰ろうとしたためとありました。当時ワンゲル同好会は発足8年目で、部への昇格には活動記録が必要だったためです。装備を捨てれば買いなおす必要となり、活動が制限されてしまうと考えたからです。そして3つめも2つめと同じところにつがなりますが、日程的には登頂できると判断していたからとまとめられています。

このため、最初の襲撃で下山することなくテントに戻ったということです。その結果、ヒグマの匂いが付いた荷物を取り返したことでヒグマが逆ギレして執拗に追いかけられてしまったということです。

当時の様子や心境などが綴られている

メモには河原が襲われたときの声を聞いたことから始まり、ヒグマに追いかけられたことなどが書かれていました。27日の早朝には目が覚めたけれども怖いので再び寝袋にもぐりこむなどと書かれています。午前7時には下山を決意してお握りを作って準備しますが、外を見ると5m先にヒグマが見えたために断念したことも書かれていました。

その後、外に出られないことで絶望を感じた興梠のメモの字は乱れ判読不可能なものになっています。そして「またガスが濃くなって」という言葉を最後に、興梠のメモは終わっています。この最後の1行を書いた後、テントにいる興梠はヒグマに襲われたとされています。

福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件のその後

興梠の遺体が発見される前日の7月29日に、5人を襲ったヒグマは射殺されています。解剖した結果、人間を食べた形跡がありませんでした。つまり、犠牲になった3人はいたぶられただけだったということです。

これほどまで凄惨な獣外事件となった福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件ですが、事件のその後はどうなっていたのでしょうか。

目撃情報があった場合は立ち入り禁止に

それまでヒグマに関する情報はあまり多くはありませんでした。この福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件のあと、ヒグマの習性や一般的に言われていたことの間違いなどが市民に知れ渡りました。

福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件の後、北海道全体で山中でのヒグマの目撃情報があった場合は絶対に山に入らないようにと立ち入り禁止警告がでるようになりました。

福岡大ワンゲル同好会から部に昇格

福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件は、別名として福岡大学ワンダーフォーゲル同好会ヒグマ襲撃事件とも呼ばれます。これは、当時の福岡大学ワンダーフォーゲル部は同好会だったためです。福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件の2年後、ワンダーフォーゲル同好会は部に昇格しています。

2013年にTV番組「奇跡体験アンビリバボー」で特集

2013年7月には『奇跡体験アンビリバボー 知られざる海と山の恐怖大特集』にて、この福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件が扱われました。『奇跡体験アンビリバボー』では、事件の再現ドラマが放映されましたが、5人全員が実名で放映されました。

福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件で得た教訓

福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件のあと、現場には犠牲になった3人の名前が入った追悼のプレートがはめ込まれました。

この事件の後、ヒグマに対しての教訓が広く認知されるようになりました。本州や四国に広く生息するツキノワグマは臆病な性格で、熊鈴やラジオなどで音を出しながら登山することが有効です。北海道のみに生息するヒグマには通用しません。

ヒグマに背を向けて逃げないこと。ヒグマを使った実験でも、マネキンを正面から突きつけるとひるむのに対して、背を向けると襲い掛かるのがヒグマの習性の一つであると分かっています。

またヒグマは一度所有したものへの執着心が非常に強い動物であることが分かりました。福岡ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件での最大の教訓は、このことです。つまり5人が最初にヒグマに荷物を漁られたときに、荷物の中に貴重品も入っているからと取り返してしまったことです。このため、ヒグマは5人を執拗に追いかけたと考えられています。

最初の襲撃のときに荷物を捨てて下山していれば、犠牲者は出なかったかもしれません。そう簡単に言えるのは、いまは様々な情報が事前に簡単に手に入るからです。そんな情報化社会であっても、ヒグマの被害にあわない唯一の方法とは、ヒグマに出会わないことといわれます。

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