ひかりごけ事件の真相とは!名前の由来や船長への判決は【食人事件】

1944年、遭難した徴用船の船長が人肉を食べたという「ひかりごけ事件」が起こりました。その衝撃的な内容から「ひかりごけ事件」の名前は世間に知れ渡り、後に映画化されました。極寒の北海道で起きた食人事件の詳細や、逮捕された船長に下された判決などをまとめました。

ひかりごけ事件の真相とは!名前の由来や船長への判決は【食人事件】のイメージ

目次

  1. 1ひかりごけ事件とは
  2. 2ひかりごけ事件の真相【生還】
  3. 3ひかりごけ事件の真相【逮捕】
  4. 4ひかりごけ事件の真相【判決】
  5. 5ひかりごけ事件を題材にしたメディア
  6. 6ひかりごけ事件は戦時中に起きた食人事件だった

ひかりごけ事件とは

公には報道されなかったものの人々の間で大きな話題となり人づてに伝えられ、のちに映画や小説の題材となった事件があります。それが「ひかりごけ事件」です。1944年に起こったひかりごけ事件は、日本国内において、食人で逮捕され有罪となった初めての事例でもあります。ひかりごけ事件とはいったいどのような事件だったのでしょう。

北海道で発生した死体損壊事件

ひかりごけ事件は、北海道東部にある目梨郡羅臼町(めなしぐんらうすちょう)に建てられた一軒の小屋の中で起きた事件だと言われています。羅臼町は知床半島の東岸に面し、前には根室海峡が広がっています。ひかりごけ事件が起きたのは北海道が極寒の地となる12月から2月頃のことでした。

当時日本には食人事件についての規定が定められていなかったため、ひかりごけ事件は死体損壊事件として扱われることになりました。さらに、小屋の隅に置かれてあった木箱の中から白骨が見つかったため、死体遺棄事件としても捜査されました。

裁判で裁かれた唯一の食人事件

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日本で食人事件が起きたのはこれが初めてではありませんでした。戦前の食べ物が豊富でない時代に、知的障害を持った母親が、息子を鍋で煮込んで食べてしまったという話も残されています。しかし食人が法で裁かれることになったのはひかりごけ事件が初めてでした。裁判記録はすでに失っており、裁判の詳細は不明のようです。

ひかりごけ事件の名前の由来

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「ひかりごけ事件」という名称は、作家の武田泰淳がのちに発表した小説に由来しています。この小説『ひかりごけ』は、北海道で起きた食人事件がテーマとなっていますが、公開されていない裁判の場面など、一部フィクションで描かれています。

小説のタイトルとなったヒカリゴケは、気温が低く暗い場所に生息するコケ植物です。光の当たる場所によって違った色や輝きを放つヒカリゴケを、一見残酷な食人事件も違った見方をすれば、背景にある悲しい真実に気づくということに重ね合わせたタイトルだと言われています。

ひかりごけ事件の真相【生還】

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ひかりごけ事件を起こしたのは、日本陸軍の民間徴用船に乗る29歳の船長でした。徴用船とは、太平洋戦争中に日本軍の輸送船が不足し、食糧や軍需物資を届けるのが困難になったため動員された民間の商船や漁船のことです。1944年12月、ある日徴用船は修理のため小樽市に向け出港しました。それが、ひかりごけ事件の始まりだったのです。

第五清進丸の遭難

ひかりごけ事件の犯人とされる船長が乗っていた漁船の名前は「第五清進丸」です。船長が29歳、船員Aは39歳で船長の義理の兄にあたる漁師でした。そのほかの乗組員は当時18歳のB、漁師仲間で34歳のC、B少年と同じく18歳のD、50歳のE、47歳のFで、その日第五清進丸には合計7名の船員が乗っていました。

船の修理のため小樽市に向かった第五清進丸は、知床岬沖付近で悪天候によるシケで遭難してしまいました。船は浅瀬に乗り上げ動けなくなり、船長は破壊した船から自力で脱出し退避しましたが、他の船員とははぐれてしまったそうです。

極寒と飢餓で5名が死亡

なんとかペキンノ鼻に辿り着き小屋に避難した船長でしたが、他の船員の消息は不明となってしまいました。のちに「シゲ」と呼ばれる18歳の船員Bが小屋に辿り着きましたが、結局、残りの5人は寒さと飢えで死亡してしまったと考えられています。

平均気温が0度にも満たない12月に遭難し、植物も生えず動物も冬眠から覚めないこの季節に生き延びるのは難しかったのでしょう。小屋にたどり着くことができた船長とシゲは、非常に運が良かったと言えます。

「不死身の神兵」として生還

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遭難から約2ヵ月後の2月3日、少し吹雪も収まったころ、船長は羅臼町の漁師の家に飛び込み助けを求めました。家にいた夫婦が驚き救助を呼び、船長はようやく命の危機から脱出したのです。救出した船長の他に小屋に辿り着いたシゲも最後には死亡し、ただ一人生還した船長を、人々は「不死身の神兵」と称賛しました。

流氷が浮かぶほどの寒い冬の北海道で遭難し、無事に生きて帰ることができたのは奇跡です。極寒の中遭難したにも関わらず2ヵ月もの間生き延びた船長を見て、羅臼町に住む人々は驚き、船長をヒーローのように扱いました。

ひかりごけ事件の真相【逮捕】

遭難からの帰還で一躍英雄となった第五清進丸の船長は、それから約4ヵ月後にひかりごけ事件の容疑者として逮捕されることになります。逮捕されるきっかけとなったのは、生き延びた船長の不自然な証言でした。連絡を受けた警察官の鋭い調査により、ヒーローから一転、容疑者となった船長の逮捕までの経緯をご説明します。

食人を直感した人間

ヒーローとしてもてはやされる船長の発言に、初めに違和感を感じたのは羅臼村の派出所に勤務していた山口巡査部長でした。山口巡査部長は、船長が食糧にしたとされるトッカリ(アザラシ)が12月から1月に現れるはずがないと気づきました。

さらに流氷が浮かぶ冷たい海で海藻を採ることは不可能な状況において、生きて帰ってきた船長が不自然だと考えたのです。山口巡査部長は船長が仲間を殺して食べたのではないかと疑い始めました。船長の証言に矛盾を感じた山口巡査部長は、ひかりごけ事件の管轄である標津(しべつ)警察署の署長に報告することにしました。

山口巡査部長からの報告を受けた署長は、船長が非難していた小屋の現地見分を行う決定を下しました。まだまだ雪に覆われた雪山で、遭難の危険も伴うような命がけの現地見分でしたが、結局このときは、食人の証拠は出てきませんでした。

3ヶ月後の真実

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5月になりすっかり雪が溶けると、山口巡査部長は片山梅太郎という人物に協力を求めました。片山梅太郎は、船長と船員Bが非難していた昆布小屋の所有者です。春になり山口巡査部長が小屋を尋ねると、片山梅太郎は水や食料を補充しているところだったそうです。

山口巡査部長は自分が気づいた矛盾点を片山梅太郎に話し、何か変わったことがあれば連絡するように依頼しました。数日後、小屋の中で白骨の入ったリンゴの木箱を見つけた片山梅太郎は、すぐに山口巡査部長に報告しました。

小屋の中のあらゆる場所から血しぶきのようなものも見つかったことが理由で、船長は船員Bを殺害し食べてしまい、さらに骨を木箱に入れて捨てたという疑いがかけられたのです。

船長を逮捕

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船長がヒーローとなった日から4ヵ月後の6月、ついに船長はひかりごけ事件の犯人として逮捕されました。かけられた容疑は殺人と死体遺棄、そして死体損壊でした。逮捕され、ひかりごけ事件の取り調べが開始するとすぐに船長は食人についての罪を認め、決して嘘をついたり自分を取り繕うような証言はしなかったそうです。

むしろ、罪の意識を感じながら過ごしてきた船長は、逮捕されてホッとしているとも話していたそうです。こうして船長はひかりごけ事件の容疑者として、裁判にかけられることになります。

 

ひかりごけ事件の真相【判決】

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7月の半ば釧路地方裁判所にて、ひかりごけ事件の容疑者として逮捕された船長の裁判が始まりました。日本で初めて行われる食人事件の裁判に多くの人が興味津々でした。「どんな判決が下されるのか」と、傍聴を希望する人も多数いたのではないでしょうか。しかし、ひかりごけ事件の裁判の様子は公開されることはありませんでした。

殺人は否定

ひかりごけ事件では殺人と死体損壊、死体遺棄の容疑をかけられた船長の取り調べが進められました。しかし船長は、食人について素直に認め反省しているものの殺人に関しては否認し続けました。あくまで、死んでしまったあとのシゲの体が美味しそうに見えたので、空腹に耐えることができずに食べたと主張しました。

警察に、シゲを殺したことを確認されると「そんなことするはずがない」とうなだれていました。なお、食人自体を裁く規定はなかったため、人を食べることに対する罪は問われませんでした。

非公開の審理

ひかりごけ事件の裁判は非公開で行われました。理由は、ひかりごけ事件があまりにも残忍でショッキングな内容だったので、多くの人目に触れない方が良いと考えられたからです。裁判が非公開で行われただけではなく、新聞報道も一切ありませんでした。

ひかりごけ事件の捜査記録や、裁判記録など真実を記すものは戦後にすべて廃棄されてしまったので、裁判の様子を正確に証明するものは、現在ひとつも残されていません。

懲役1年の実刑判決

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船長が最後まで殺人を否定し続けたので、ひかりごけ事件の裁判で問われた罪は死体損壊のみになりました。船長は懲役2年が求刑されましたが、それに対し船長の弁護人は無罪を主張しました。船長が遭難して食糧のない状況で死体を食べたのは「緊急避難」だったと強く述べたのです。

さらに、遭難したときの船長は物事の判断ができないほど、心神耗弱状態にあったとも主張しています。結局、船長が精神的に弱っていたことは認められましたが緊急避難とはみなしてもらえず、懲役1年の実刑判決が下されました。

1944年7月より、船長は網走刑務所で服役しました。模範囚だった船長は、刑期を終える20日前の1945年6月28日に仮出所し、そのまま網走刑務所をあとにしました。

船長の想い

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船長は「遭難して極限状態で食べた人間の体は今までにないほど美味しかった」と述べています。ですが、悪いことをしていると頭ではわかっていながら歯止めが効かず、仲間を食べ尽くしてしまった理由やあの時の気持ちは何年経っても理解できなかったそうです。

ときには閻魔大王に裁かれる恐ろしい夢にうなされたり、「人食い船長」と陰口を叩かれることは日常茶飯事でした。それでも、自分は悪いことをしたのだから裁かれるのは当然だと考え、判決を受け容れたようです。

むしろ短すぎるくらいの刑期に自分自身が納得できず、出所後に崖から飛び降りて命を絶とうとしたこともありました。船長は死ぬまで罪の意識にさいなまれたまま一生を終えました。

ひかりごけ事件を題材にしたメディア

ひかりごけ事件の概要はすぐに人づてに広がりました。のちに噂を耳にした作家の武田泰淳によって、ひかりごけ事件をテーマにした小説が出版されました。さらに映画化されるなどして、少しずつ内容を変えながらひかりごけ事件は多くの人に伝えられていきました。では「ひかりごけ事件」を題材にした主なメディアを2つご紹介します。

映画『ひかりごけ』

北海道のひかりごけ事件をテーマにした映画『ひかりごけ』は1992年に公開されました。熊井啓監督が指揮のもと、三國連太郎、奥田英二、田中邦衛といった昭和のベテラン俳優たちが、難しい役を見事に演じ切りました。公開から30年近く経つ映画ですが、今なお語り継がれている名作です。

「観た後にいろいろと考えさせられる映画である」と作品の評価も高く、何より俳優の演技力のおかげで、人を食べるシーンは本当に不気味に感じるようです。ベテラン俳優の三國連太郎が演じる船長が、淡々と無表情で死体を食べる姿には、ホラー映画のような恐怖も感じるそうです。

小説『ひかりごけ』

ひかりごけ事件を題材にしたメディアには小説もあります。前述のように、当初「難破船長食人犯罪」と称されていたひかりごけ事件は、武田泰淳によって発表された小説『ひかりごけ』から名付けられたと言われています。この作品は、武田泰淳の短編小説集『ひかりごけ』に収録されています。

ひかりごけ事件をテーマにしたこの作品には、死体を食べたという事実の裏側にある船長の心情にもスポットが当たっています。閉ざされた雪山で恐怖と孤独を感じた人間は、ただただ本能のままにしか行動することができないというやるせなさが伝わってくるお話です。

この小説は少し構成が変わっていて、実際のひかりごけ事件の裁判記録が残っていないため、裁判中の内容に関してのみフィクションという構成になっているようです。

ひかりごけ事件は戦時中に起きた食人事件だった

1944年に北海道で起きたひかりごけ事件についてまとめました。食人とはなんて非人道的行為なのだと考える人も少なくないでしょう。ですが、光の当たり方によって輝き方が変わるヒカリゴケのように、船長の「生きなくては」という本能に従った食人は、別の角度から見ると仕方なかったと許されるべきことなのかも知れません。

懲役1年の実刑判決を受けた上、罪の意識を抱えたまま死んでいった船長は、十分罪を償ったのではないでしょうか。戦争もなく物に溢れた平和な現代の日本において、食人など想像もできません。ですが、極限まで追い込まれると、人はとにかく生きようとするのではないでしょうか。

自ら死を選ぶ人が後を絶たないこの世の中で、生に執着した船長が起こしたひかりごけ事件を後世に伝えることは、実はとても大切なことなのかも知れません。
 

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なおきー太

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