千里眼事件の御船千鶴子とは【実在したリング・貞子の母のモデル】

「千里眼事件」を引き起こし、世間から注目された御船千鶴子についてご紹介します。千里眼事件のトリックや、24歳という若さで自殺した真相はどのようなものだったのでしょう。その他に『リング』の山村志津子のモデルにもなった、御船千鶴子の現在のお墓の情報もお伝えします。

千里眼事件の御船千鶴子とは【実在したリング・貞子の母のモデル】のイメージ

目次

  1. 1御船千鶴子とは
  2. 2御船千鶴子の能力が認知された背景
  3. 3御船千鶴子が起こした千里眼事件とは
  4. 4御船千鶴子に向けられた疑惑
  5. 5千里眼事件後の御船千鶴子
  6. 6千里眼事件はトリックだったのか真相は謎のまま

御船千鶴子とは

・本名:御船千鶴子
・生年月日:明治19年7月17日
・現在年齢:明治44年1月19日没(24歳)
・出身地:熊本県
・活動内容:超能力・透視
・家族構成:結婚後2年で離婚

千里眼の能力を持つ女性

御船千鶴子は明治時代の1886年~1911年に実在した人物であり、『リング』で貞子の母である、「山村志津子」のモデルとなったとされています。オカルトブームのさなか、超能力・透視ができる女性として、「千里眼事件」を引き起こし世間をにぎわせました。

実在した御船千鶴子の、トリックの解明が注目されていた透視能力は、「千里眼」と呼ばれ、数々の公開実験や科学者たちの調査研究題材として、取り上げられていたようです。一躍脚光を浴びた御船千鶴子のお墓は、熊本県宇城市の不知火町松合にあり、今でも透視家として、また、山村志津子のモデルとして知られ、オカルトファンが訪れます。

実在したリング・貞子の母「山村志津子」のモデル

『リング』に登場する貞子の母の山村志津子は、実在する御船千鶴子がモデルになったといわれています。貞子の母の山村志津子が出てくる『リング』の、原作者である鈴木光司は、図書館で読んだ本(『超心理学者 福来友吉の生涯』(大陸書房))に書かれていた、実在する人物から『リング』の登場人物のモデルを選んだようです。

『超心理学者 福来友吉の生涯』には、千里眼事件を引き起こした御船千鶴子の事が書かれていました。それを『リング』の原作に用いて、モデルの配役を立てたようです。

福来友吉博士、御船千鶴子、高橋貞子という実在の人物が登場しており、『リング』の中では、福来友吉博士→伊熊平八郎、御船千鶴子→山村志津子、高橋貞子→山村貞子という組み合わせで『リング』の登場人物のモデルにあてられています。

御船千鶴子の能力が認知された背景

『リング』で貞子の母である、「山村志津子」のモデルとなった御船千鶴が、千里眼事件で騒がれだした20世紀当初は、オカルティズムブームの時期と重なっており、世界中が超能力者や透視家のトリックに注目します。

博士や教授といった学者も御船千鶴子の透視能力を研究しており、新聞社を呼んだ実験も行われました。御船千鶴子は、その「千里眼」と呼ばれる透視能力で、莫大な利益を得ようになるのです。

体内透視による民間療法を行う

御船千鶴子は熊本生まれで、御船千鶴子の姉の夫である、義兄の清原猛雄は、睡眠術による心霊療法を行っていました。御船千鶴子はその義兄の清原猛雄が経営する病院で、千里眼による内々透視の治療を行うようになります。

明治時代の半ばの1900年(明治30年)頃は、催眠術ブームが巻き起こっていました。御船千鶴子らのような、体内透視による民間療法取る病院は、珍しくなかったようです。体内透視の治療を行う民間医が多数実在したといわれています。

透視能力でさまざまな物を発見

御船千鶴子は明治41年(1908年)に陸軍歩兵中尉の、河地嘉兼と結婚します。明治43年(1910年)には離婚してしまうのですが、婚姻中にも透視能力を発揮しています。ある日夫の財布から50円玉がなくなった際に、姑が使用していた仏壇の引き出しの中にあるといい当てたといわれています。

その他に、莫大な利益を得たのが、三井三池炭鉱を発見した時です。謝礼は当時の2万円(現在の2000万円相当)とされています。義兄の病院も御船千鶴子のおかげで患者が大勢押し寄せている事から、大きな収入を得ていた事は間違いないでしょう。

輸送船の常陸丸に乗船していたとされる、第六師団兵士の様子も透視しており、第六師団兵士は船の故障のため途中から乗船していなかったといい当てます。海水浴中に海中でなくした指輪を、干潮時に透視で発見できたという記録も残っています。

新聞で取り上げられ有名に

明治42年(1909年)、当時病気の治療中だった前京都帝国大学の総長である木下広次法学博士の「御船千鶴子から透視治療を受けた」という内容のコメントが新聞に載りました。

京都帝国大学の医学科大学教授で精神科の医師でもある今村新吉博士により、御船千鶴子の透視能力の研究が進められます。透視能力が実在するのかを確認するため、今村新吉博士は明治43年(1910年)には御船千鶴子のいる熊本に赴き、カードを用いた透視実験を行います。

同じ年の4月9日には福来友吉博士と今村新吉博士が御船千鶴子を訪ねます。前より厳重に封がされたカードを使用して透視実験が行われました。その後、東京で博士らによって報告された実験結果が注目される事となり、御船千鶴子は一躍脚光を浴びます。

御船千鶴子が起こした千里眼事件とは

千里眼事件は明治43年(1910年)~翌年の明治44年(1911年)にかけて起こった騒動です。千里眼事件の主要人物は御船千鶴子、長尾郁子、福来友吉博士、今村新吉博士の4人でした。長岡郁子は「透視能力」の他に「念写能力」が備わっていたとされる女性です。

この4人によって、透視能力の実験が数々行われていきました。オカルティズムブームの渦中となるも、本当に透視能力は実在するのか否かの議論が勃発し、千里眼事件へと発展していきます。この千里眼事件で透視能力を疑われ、心を痛めた事が原因で御船千鶴子は自殺したのではないかという噂があります。

科学者らによる透視実験で成功をおさめる

千里眼事件の始まりとして、東京で学者や新聞記者も交えた透視能力の公開実験が行われます。熊本に住んでいた御船千鶴子の上京に合わせた、明治43年(1910年)9月の事です。参加したのは東京帝国大学院の元総長で物理学者である山川健次郎博士や、物理学者、医学者、哲学者ら多数です

公開実験は9月14日、15日、17日の3日間にわたり行われました。14日は主に学者へ向けて、15日は新聞記者を対象とした公開実験でした。

14日の実験内容は、鉛管の中に3文字を記した紙を入れ、文字を透視で言い当てるというものです。鉛管は山川健次郎博士が用意し、はんだ付けされており、封を開ける事はできません。御船千鶴子は透視で、鉛管の中の紙に書かれた文字は「盗丸射」だと的中させます。

しかし、山川健次郎博士は「盗丸射」と書かれた鉛管は用意していないと指摘します。福来友吉博士は前日に練習用として御船千鶴子に鉛管を渡したと主張します。その練習用の鉛管が当日の鉛管に混ざったのではないか、という話で14日は幕を閉じる事になりました。

そして記者達を迎えた15日の第2回目の公開実験は成功します。続く17日の第3回公開実験では学者らを迎えます。錫製の小壺に入れられた紙に書かれた3文字を透視します。小壺は箱に入れた状態で更にひもで縛り、結び目には認め印を捺した紙縒りで結ばれていました。御船千鶴子は透視の結果「道徳天」の文字を見事的中させます。

一連の透視実験により脚光を浴びる

明治42年(1909年)に、木下広次法学博士に行った透視療法の件で新聞に報じられて以来、明治43年(1910年)9月に行われた3日間に及ぶ公開実験などが拍車をかけ、御船千鶴子は脚光を浴びます。

福来友吉博士や今村新吉博士らとともに行ってきた数々の実験で実績を残し、「千鶴子の透視能力は本物」という評価まで貰います。オカルティズムブームとは縁遠いとされる、博士らが本物と認めるのであれば間違いないと、オカルティズムブームも最高潮に盛り上がるのです。

公開実験で御船千鶴子のすり替え疑惑が浮上

明治43年9月14日に東京で行われた公開実験で、御船千鶴子は紙に書かれた文字を「盗丸射」と的中させました。しかしその鉛管が、実験当日に用意されたものではない、という事に関して問題は解決していなかったのです。

御船千鶴子自身がすり替えを認める

疑惑浮上のきっかけとなったのは、実験に参加していた山川健次郎博士の発言からでした。前述しましたが、鉛管を用意したのは山川健次郎博士で、山川健次郎博士は前の日の打ち合わせには「盗丸射」という文字が書かいてある鉛管を用意していました。しかし14日には「盗丸射」と書いた鉛管は用意していなかったのです。

当日の実験を行う前に書いていた答えの控えを確認したところ、「盗丸射」の控えは無かったといいます。なぜ存在しない「盗丸射」と書いた鉛管があったのか、山川健次郎博士は何らかのトリックがあったのだと疑います。

しかし、その時点では前の日に福来友吉博士が山川健次郎博士に渡した模型の鉛管が混ざったからではないかという結論に至り、トリックではなく透視による的中だという事で解散しました。

その日の夜、宿泊先に戻った福来友吉博士は御船千鶴子と話し合いを行います。その後、御船千鶴子は自分が鉛管をすり替えたトリックなのだと、事実を認めたのです。

御船千鶴子に向けられた疑惑

御船千鶴子がなぜ「盗丸射」と書かれた鉛管を持っていたのかというと、前日に練習用として福来友吉博士に渡されていたからだそうです。福来友吉博士もその事実を知っていたので、御船千鶴子がすり替えをしたのだと認めました。

なぜすり替えたのかというと、流れはこうなります。御船千鶴子は前日に福来友吉博士に渡された練習用の鉛管をお守りとして懐にしのばせて実験に挑みました。しかし、実験を開始しましたが当日渡された鉛管の中身を透視する事は出来なかったのです。

前日渡された鉛管の中身は透視できており、「盗丸射」と書かれているのだとわかっていました。なので、懐にしのばせていたその透視できている鉛管と、当日透視できなかった鉛管をすり替え、鉛管の中身には「盗丸射」と書かれていると、答えたのです。

つまり、御船千鶴子は鉛管のすり替えの事実は認めたものの、あくまでも「盗丸射」の文字は透視によって導き出したものだというのです。博士らもトリックによるものなのか、透視で見えたものなのか判断できかねる状況だったといえます。

実験が甘い条件のもと行われた

山川健次郎博士もその事実の報告を受けた後、実験環境が完全な元で行われなかった事や、御船千鶴子の透視能力がトリックによるものであるかどうかについて「否定も肯定もできない曖昧なもの」という内容のコメントをしています。

この3日間の公開実験は新聞記者らも参加した中での公開実験だったため、トリックなのではないかという問題が浮き彫りとなり、御船千鶴子の不正疑惑が勃発します。「千鶴子は大詐欺師也」の文字が新聞に書かれ、透視はトリックなのかという審議は波紋を広げます。

結果として御船千鶴子は世間からバッシングを受けることになりました。この千里眼事件以来、御船千鶴子の行く末は急変し、自殺への道をたどるのです。

透視の的中率は5回中3回だった

明治43年11月17日と18日の2日間にわたり、御船千鶴子の最後となる、東京での千里眼事件以来の公開実験が行われます。実験を行ったのは福来友吉博士であり、福来友吉博士は2日目の18日に行われた実験を最も重要だと捉えていました。

この公開実験は地元の熊本で行われ、2日目の18日は御船千鶴子の手元が見える状態で実験を行ったのです。これまでの御船千鶴子の透視実験は、立会人に背を向けることや別室に1人でこもり透視したりと、御船千鶴子の手元が見えない状況下での実験でした。

顔は隠していたのですが、この時の実験では手元が見える状態で巻きたばこの箱に入れた2個のサイコロの目を当てるという内容でした。巻きたばこの箱は紙で封をされ、つなぎ目には認め印を捺してあり開封する事はできません。

そんな中、御船千鶴子は5回の実験の内3回的中させるという結果を残しました。手元が見える中、開封する事も困難な箱の中にあるサイコロの目を、5回中3回も的中させることはなかなか良い成績のように思われます。しかしこれに異を唱えたのは、日本超心理学会の初代会長、小熊寅之助です。

小熊寅之助は、透視に成功したのは5回中3回である事や、確率の問題において5回に3回という的中率は低い数値である事を指摘します。そこから、この程度の確率であれば透視能力以外の普通の原因からの的中ともいえるのではないかと主張するのです。

「確実に新しい能力の発見と断言するには結果が乏しく、断言するに至らない」というのが小熊寅之助の見解でした。

実験に使用された巻きたばこの箱は、サイコロの目を確認するたびに開封され確認していました。再びサイコロを入れサイコロを振るのですが、巻きたばこの箱は小さく、十分にサイコロを振る事は出来なかったといいます。

サイコロが十分に振られていなければ前に出た目と同じ目が出る確率も上がるという事で、「透視以外の普通の原因」が透視のトリックではないかと囁かれ始めます。毎回サイコロの目を確認しない事や、サイコロを十分に振る事の出来る大きな箱で実験を行い、同じ目が出る確率を下げるなどの対策を求められるようになります。

千里眼事件後の御船千鶴子

透視能力を確かめる公開実験の条件の甘さを改善する事なく、御船千鶴子の公開実験も2度と行われる事はありませんでした。なぜなら御船千鶴子は翌年に、染料用の重クロム酸を服毒し自殺したのです。御船千鶴子の自殺により真相は解明されず、御船千鶴子の透視能力のトリックは闇の中となります。

厳しいバッシングを浴びる

明治43年9月14日に東京で行われた透視能力の公開実験で鉛管のすり替えを疑われた事で、御船千鶴子は新聞にも「大詐欺師也」などと書かれました。

2か月後の明治43年11月17日、18日の2日間に渡って地元の熊本で行われたサイコロを透視する公開実験でも、透視ではなく他の要因によるトリックなのではないかと疑惑が浮上した事から、御船千鶴子は透視能力について世間から厳しいバッシングを浴びています。

服毒自殺により死去

御船千鶴子の自殺の背景には、千里眼を持つ透視家としての活動で得た御船千鶴子の利益問題があります。御船千鶴子の財産を巡った親族間での争いに嫌気がさし、自殺したのだと噂されています。また、自殺要因には御船千鶴子の離婚も関係していたとの噂もあります。

御船千鶴子は透視家として活動しだしてから22歳の頃に陸軍の河内可謙中佐と結婚しており、子供に恵まれることなく短期間で離婚しました。その後24歳で自殺してるため、夫との離婚も自殺の一因といえるでしょう。

御船千鶴子の自殺の原因は親族間の資産争いだったのか、夫との離婚が原因だったのか、透視能力の実験を批判された事によるものなのか、今となっては自殺した本人のみが知る事となります。

熊本県宇城市に墓がある

リングの「山村志津子」のモデルにもなった御船千鶴子のお墓は、現在熊本県宇城市の不知火町松合にあります。道の狭い峠の頂上辺りに墓地はあるようです。「御船千鶴子」と書かれた御船千鶴子専用の墓がたてれており、今でもそのお墓にはオカルトファンが訪れています。

千里眼事件はトリックだったのか真相は謎のまま

千里眼事件を引き起こした透視家として、明治時代1886年~1911年の間にこの世に実在した御船千鶴子をご紹介しました。『リング』に登場する貞子の母、山村志津子のモデルとされた御船千鶴子は、数々の功績と共に数々の謎を残します。

自殺を図りこの世を去る事となりましたが、そのお墓には今でもオカルトファンが訪れるなど、真相について語り継がれています。御船千鶴子の自殺の原因のひとつとされる千里眼事件の公開実験は、どれも失敗ではないが成功ともいえず、曖昧なままに終わりました。

『リング』で山村志津子役のモデル役に起用される元となった本にも、記録が残されていくのです。千里眼事件で一躍時の人となった御船千鶴子ですが、自殺後も『リング』に出てくる貞子の母「山村志津子」のモデルに起用なるなど、その影響力の大きさが伺えます。

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