吉展ちゃん誘拐殺人事件!犯人・小原保の生い立ちから死刑まで

吉展ちゃん誘拐殺人事件は戦後最大の誘拐事件といわれる事件です。平塚八兵衛が事件解明に力を注ぎ、小原保が犯人と断定されました。小原保は死刑となり、ドラマや映画にもなりました。吉展ちゃん誘拐殺人事件の詳細、そして犯人小原保の生い立ちから死刑までを追っていきます。

吉展ちゃん誘拐殺人事件!犯人・小原保の生い立ちから死刑までのイメージ

目次

  1. 1小原保とはどんな人物?【吉展ちゃん誘拐殺人事件】
  2. 2小原保の生い立ち
  3. 3吉展ちゃん誘拐殺人事件の概要
  4. 4小原保逮捕までに時間を要した理由【吉展ちゃん誘拐殺人事件】
  5. 5刑事・平塚八兵衛による捜査【吉展ちゃん誘拐殺人事件】
  6. 6吉展ちゃん誘拐殺人事件のその後
  7. 7吉展ちゃん誘拐殺人事件が世の中に与えた影響は大きい

小原保とはどんな人物?【吉展ちゃん誘拐殺人事件】

吉展ちゃん誘拐殺人事件は、メディアを利用して国民の関心を集めた特異な事件でした。戦後最大の誘拐事件と言われたこの事件の犯人であり死刑になった小原保とはどのような人物だったのでしょうか。まずは小原保とはどんな人物なのか追ってみましょう。

吉展ちゃん誘拐殺人事件の犯人

小原保は吉展ちゃん誘拐殺人事件の犯人です。のちに死刑が宣告され、1971年12月23日死刑が執行されました。

犯人・小原保が身代金奪取に成功したこと、事件が迷宮入り寸前になっていたこと、事件解明まで2年3ヶ月という長い年月を要したこと、犯人・小原保の肉声をメディアに公開したことなどによって国民的関心事になりました。そのため、この吉展ちゃん誘拐殺人事件は戦後最大の誘拐事件と呼ばれるようになりました。

当時4歳の男児を身代金目的で誘拐した

犯人・小原保は当時4歳の男児を身代金目的で誘拐しました。身代金の金額は50万円で、当時のサラリーマンの平均月給が2万円だったので、今でいえば相当な額の金額だったでしょう。男児の名前は村越吉展ちゃんで、両親は迷子として警察に通報しました。当初は誘拐ではなく行方不明として新聞で報じられました。

前橋刑務所で服役していた

出典: https://pixabay.com/images/id-553836/

吉展ちゃん誘拐殺人事件の犯人・小原保は1963年8月、賽銭泥棒で懲役1年6ヶ月(執行猶予4年)の判決を受けました。また執行猶予中の同年12月に工事現場からカメラを盗んだ罪で、1964年4月に懲役2年の実刑が確定して前橋刑務所に服役していました。 

小原保の生い立ち

吉展ちゃん誘拐殺人事件の犯人・小原保はどのような生い立ちを経てどのような家族の元で暮らし、このような残忍な犯行をするに至ったのでしょう。次に、小原保の生い立ちや家族についてご説明します。

11人兄弟の大家族の中で育つ

吉展ちゃん誘拐殺人事件の犯人・小原保は、1933年福島県石川郡石川町で生まれました。小原保の生い立ちは貧しい農家の家族の出で、11人兄弟の大家族の中で育っています。小原保は、家族の中で10番目の子供でした。貧しい家庭で育った生い立ちの小原保の犯罪の温床はこの頃からできていたのかもしれません。

小学生時代に足が不自由に

小原保は小学校時代にあかぎれが元で骨膜炎になり、片足が不自由になってしまいました。それが元で同級生に歩き方を真似されたりしていじめにあっていたといいます。このような生い立ちだった小原保は、足が悪いため肉体労働ができる体ではなく、当然農家では食べていけることはできませんでした。

多くの地方出身の若者と同じように、東京に出て働くことは宿命づけられていたのかもしれません。小原保が最初に東京に住み始めたのは多くの労働者が集まる荒川区の三谷からほど近い南千住でした。

中学卒業後は時計店で働く

吉展ちゃん誘拐殺人事件の犯人・小原保は、中学卒業後、仙台の職業訓練学校で時計修理の修行をしました。その技術を活かし、各地の時計店で働きます。小原保が時計職人の仕事を選んだ理由は、足が悪くても座ったまま出来るからでした。

時計店をクビになり借金苦に

小原保は1960年、上京して上野の時計店で働き始めます。しかし給料が少なく、内職の時計ブローカーをするようになりました。ところがそれが時計店の主人にバレてしまい1963年1月に時計店をクビになってしまいました。

その後は定職につかず、相変わらず時計や貴金属のブローカーでお金を稼いでいましたが、飲み屋の女将と同棲してヒモのような生活をするなど、荒れた生活をしていました。吉展ちゃん誘拐殺人事件が起こった3月頃は、ブローカー業の借金返済が集中していた時期で借金苦に陥っていました。

吉展ちゃん誘拐殺人事件の概要

吉展ちゃん誘拐殺人事件はどのような経緯で犯人・小原保逮捕へとたどり着くことになったのでしょうか。次に、吉展ちゃん誘拐殺人事件の概要をご説明します。

公園で遊んでいた吉展ちゃんが行方不明に

1963年3月31日、東京台東区入谷町に住む建築業者の長男・村越吉展ちゃん(当時4歳)が自宅近くの台東区立入谷南公園に遊びに出かけたまま行方不明になりました。当初、家族は迷子だと思い警察に通報しました。家族の言葉を受け、新聞にも誘拐ではなく行方不明と報じられました。

ところが聞き込みをしているうちに、公園で吉展ちゃんが「30代の男性」と会話していたという情報を得ます。吉展ちゃんは入谷南公園内にあったトイレの水飲み場で水鉄砲に水を入れようとしていました。その水鉄砲はアメリカ製で60センチほどある大きなものでしたが、水を入れる部分が壊れていて一生懸命なんとか水を入れようと悪戦苦闘していたのでした。

そこで小原保は「おじちゃんが直してあげようか」と声をかけていたのでした。そうしたことから警視庁捜査一課は誘拐の可能性があるとして捜査本部を設置しました。

吉展ちゃんの実家に9回にも及ぶ身代金要求

4月2日、最初の身代金要求の電話が家族に入ります。身代金は50万円でした。4月3日、「子供は返す、現金を用意しておくように」という犯人からの電話が再び家族に入ります。4月4日、再び身代金を要求する電話が家族に入り、母親が吉展ちゃんの安否を確認させるため、電話の会話を4分以上引き延ばすことに成功しました。

この結果、犯人の声の録音に成功します。その後、4月7日までに吉展ちゃんの家族に合計9回にも及ぶ身代金要求の電話がありました。

身代金50万円奪われる

4月6日、最初の身代金受け渡しを指示する電話が家族に入ります。「上野駅前の住友銀行脇の電話ボックスに現金を持ってこい、警察には連絡するな」という内容でした。母親はすぐにその電話ボックスに向かいましたが犯人は現れませんでした。「お金は持って帰ります。また連絡をください」というメモを残して母親は自宅に戻りました。

犯人はその後もそこには現れませんでした。さらにまた家族に電話が入ります。「上野の電話ボックスには警官がいて危なくて近寄れなかった、今度は子供の靴を証拠としておくからそこへ現金を置け、場所はまた連絡する」という内容でした。

4月7日、犯人から「今すぐ(母親が)1人で金を持ってこい」という身代金の受け渡し方法を指示する内容の電話が家族に入ります。その場所は家からたった300mしか離れていない場所でした。すぐに家を出た母親がそこへ向かうと、そこには吉展ちゃんの靴が置いてありました。

母親はその靴と引き換えに身代金の入った封筒をその場所に置きました。しかし、ここで手違いが起こります。合図の手違いから母親の運転する車が予定より早く出発してしまいました。他の刑事たちは母親よりも2分遅れて現場に到着しました。

母親は犯人の指示通り現場に50万円の包みを置き、代わりに置いてあった吉展ちゃんの靴を持ち帰りました。こうして警察が見張りを始めるわずかな時間差を突いて、犯人に身代金50万円を奪われてしまいました。

小原保の肉声を公開し情報提供の呼び掛け

4月13日、警察はマスコミを通じて「吉展ちゃんを家族に返してやってくれ」と呼びかけました。4月19日、警察は公開捜査に切り替えます。そして4月25日、録音した脅迫電話の声を異例の「犯人の声」手配としてラジオやテレビを通じて全国に公開し、情報提供の呼びかけを行いました。正午までに220件を越す情報が寄せられたといいます。

小原保が捜査上に浮かぶ

出典: https://pixabay.com/images/id-4088744/

逮捕の決め手は、脅迫電話の録音テープのその声でした。東北大学文学部講師を務めていた言語学者の鬼春人が「犯人は南東北・北関東出身の40歳から50歳の男である」という説を新聞に発表し、それが出身地の絞り込みにつながりました。

また、文化放送の記者が行きつけの喫茶店で「声によく似た人を知っている」という話を聞きつけたこともきっかけになっています。その声の主である小原保に録音を伴ったインタビューを行い、さらに電話した際の会話も録音し、脅迫電話の声と比較鑑定した結果でした。

また小原保は足が悪く、歩き方にも特徴がありました。そのような男が子供を連れていたという目撃証言もなく、身代金を素早く奪って逃げる男と足の悪い青年とはどうしても重なりませんでした。しかも3月27日から4月2日まで小原保は福島の実家にいたというアリバイがありました。そのため小原保は「シロ」と判断されていました。

しかし刑事の地道な捜査により小原保のアリバイに不明確な点があること、小原保が30万円ほどの一万円札を持っているのを見た人物がいたこと、身代金が奪われたすぐの一週間で小原保がほとんど収入がないにもかかわらず42万円もの金額を支出していたことなどから犯人として再び捜査線上に小原保が浮かびます。

1965年、捜査が開始されて2年の歳月を要したことになります。また、小原保は片足が不自由なため身代金受け渡し現場から素早く逃げられないのではないかと思われていましたが、実際は身のこなしが敏捷であることも判明しています。

平塚八兵衛による取り調べで自白し逮捕

1965年、事件発生から2年が過ぎ、捜査も完全に行き詰まり、迷宮入りするかに見えた吉展ちゃん誘拐殺人事件の捜査に、刑事・平塚八兵衛が投入され、捜査陣が一新されました。平塚八兵衛は「昭和の名刑事」「警視庁の至宝」と呼ばれていた人物でした。平塚八兵衛は小原保の徹底的なアリバイの洗い直しを実施しました。

小原保逮捕までに時間を要した理由【吉展ちゃん誘拐殺人事件】

吉展ちゃん誘拐殺人事件は、小原保の逮捕まで2年3ヶ月もの年数を要しました。なぜ、そのような時間を要したのでしょうか。次に、小原保逮捕までに時間を要した理由をご説明します。

報道協定を結んでいた

警察は、吉展ちゃん誘拐殺人事件が起こる3年前に発生した雅樹ちゃん誘拐殺人事件(1960年に東京都世田谷区で発生した男児誘拐殺人事件)の悲劇を繰り返さないため、また人質が殺害されることを恐れたため、報道機関に対し報道を自粛するよう求める「報道協定」を結んでいました。そのため、様々な情報を得ることができなかったのです。

警察の不手際があった

吉展ちゃん誘拐殺人事件の事件解明が遅れた原因には、警察の不手際がいくつかありました。

吉展ちゃんは事件発生後すぐに殺害されていましたが、警察はそれを知らなかったこと、身代金受け渡しの際、警察のわずかな隙をついて小原保が身代金を奪って逃走したこと、その際、現場から歩いてくる背広姿の男に会ったが気が急いていたため職務質問をしなかったこと、身代金の紙幣のナンバーを控えていなかったことなどが挙げられます。

また、事件当初、脅迫電話の人物を「40歳から55歳くらい」と推定して全国に公開し、犯人像を誤って誘導したことも事件解明を遅らせた原因となっています。ウソ発見器での検査結果も「シロ」でした。

声紋鑑定の技術が確立されていなかった

吉展ちゃん誘拐殺人事件当初はまだ声紋鑑定の技術が確立されていなかったことも、事件解明を遅らせた原因の一つになっています。

現在では、人の音声から大まかな体格や身長や年齢などを推測したり、あるいは犯人の職業までをもある程度推測できるといいます。当時の声紋鑑定では「40歳〜55歳」と推測されていました。当時と今とではその技術に雲泥の差があったのでしょう。最終的にはアメリカのFBIで声紋鑑定をすることになりました。

刑事・平塚八兵衛による捜査【吉展ちゃん誘拐殺人事件】

吉展ちゃん誘拐殺人事件の解明には、刑事・平塚八兵衛の地を這うような地道な捜査がありました。次に、刑事・平塚八兵衛がどのような捜査をしたのかをご紹介します。

徹底的にアリバイを洗い直した

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平塚八兵衛は、小原保のアリバイを徹底的に洗い直しました。事件当日あるいは身代金受け渡し当日など、小原保は実家の福島にいたと自供していましたが、地道な裏付け捜査により実家にいなかったことも判明しました。

平塚八兵衛は身代金要求のテープを聞いて、この声が小原保であると確信しました。あとはアリバイ崩しでした。当時小原保は窃盗罪で前橋刑務所に服役していましたが、「最後の容疑者」として徹底的に調べ始めます。平塚八兵衛は実家の福島に行き、「4月1日に小原保を見た」という人物の証言が「実はそれは28日のことだった」という誤りを確認しました。

小原保は実家には行かず「29日に知人の家の土蔵の鍵を壊して、凍み餅を食べた」と証言していましたが、実はこの年は米が不作で凍み餅は作らなかったということも判明しました。

何気ない世間話が自白の契機に

小原保の拘留期限は10日間と決められていました。マスコミも「小原保の取り調べは人権を踏みにじっている」と書き立て騒ぎになっていました。しかし、平塚八兵衛は何気ない世間話から自白の契機を得ることになります。

小原保は取り調べの最中に「福島から東京に戻った1963年4月3日に日暮里で火事を見た」と話し始めました。これを平塚八兵衛は聞き逃しませんでした。西日暮里の大火は4月2日に起こっていたのでした。自ら墓穴を掘ったような形になった小原保に平塚八兵衛は一気にたたみかけました。

小原保の母親の言葉を再現した

平塚八兵衛は、小原保の母親の言葉を再現し、小原保の心に訴えようとしました。平塚八兵衛が小原保の郷里の福島に行った際、その母親に会っています。

母親は「息子は人を殺すような悪人ではありません。しかし、もし息子が人として誤ったことをしたなら、どうか真人間になって本当のことを言うように言ってください」と言い、母親は何度も土下座したそうです。平塚八兵衛はその母親の様子を小原保に伝えました。すると、みるみるうちにうなじに鳥肌が立ったといいます。

小原保はずっと黙秘を続けていましたが、数々のアリバイに矛盾点があることを突きつけられ、平塚八兵衛は「これだけ矛盾点があるのにまだ逃げ切れると思っているのか」と小原保を追い込みました。そしてこの母親の言葉で、小原保は犯行を自供します。

小原保の自供により、荒川区南千住にある三ノ輪橋近くの円通寺墓地から吉展ちゃんの遺体が発見されます。遺体をた見た監察医の上野正彦は、吉展ちゃんの遺体の口元から2年で発芽するネズミモチが生えているのを見て、土中に2年間も埋められていたことに改めて冥福を祈ったといいます。

また、小原保は吉展ちゃんを連れ去った時点で「おじちゃん、足が悪いの?」と言われ、このまま返してしまうと足の悪い男が犯人だと悟られてしまうことを恐れて、すぐに殺害することを決心したといいます。

吉展ちゃんの遺体は菩提寺である回向院で弔われ、供養のために「よしのぶ地蔵尊」が建立されました。

吉展ちゃん誘拐殺人事件のその後

事件が発覚し捜査が進みましたが、その後吉展ちゃん誘拐殺人事件はどのような道のりを進んだのでしょうか。吉展ちゃん誘拐殺人事件のその後を追ってみましょう。

小原保に死刑判決のちに執行された

1965年7月4日、警視庁捜査一課は、小原保を吉展ちゃん誘拐殺人事件で営利誘拐、恐喝容疑で逮捕しました。小原保の弁護側は、計画性がなかったとして控訴します。控訴審として計3回の公判を行いましたが東京高等裁判所はこれを棄却します。1967年10月31日、最高裁判所は上告を棄却し死刑が確定しました。

そして4年後の1971年12月23日、宮城刑務所にて小原保の死刑が執行されました。享年38歳でした。死刑確定後、小原保は獄中で膨大な短歌を詠んでいます。「何か心に拠り所を持たせてやらなければ」と教誨師が考えて小原保に勧めたのが短歌でした。

「福島誠一」というペンネームで、死刑執行後に出版された歌集『昭和万葉集』に370首もの短歌を投稿していました。

「怖れつつ想いをりしが今ここに 終るいのちはかく静かなる」「世をあとにいま逝くわれに花びらを 降らすか窓の若き枇杷の木」「静かなる笑みをたたえて晴ればれと いまわの見ずに写る我が顔」「明日の日をひたすら前に打ちつづく 鼓動を胸に聞きつつ眠る」が死刑前日に詠んだ短歌です。

また犯人の小原保は、服役中に何度か平塚八兵衛に手紙を送っています。死刑当日も宮城刑務所の看守から「真人間になって死んでいきます」という遺言を電話で伝えられたと言います。定年退職した平塚八兵衛はのちに福島の小原保の墓を訪れています。

刑法に身代金目的略取が追加される

吉展ちゃん誘拐殺人事件は、法律にも大きな影響を与えました。刑法の営利誘拐に身代金目的略取という条項が追加され、通常の誘拐よりも重い刑罰を科すように改められました。

ドラマ化や映画化も

この吉展ちゃん誘拐殺人事件と死刑になった小原保のことは、数々のドラマや映画にもなりました。本田靖春はこの事件を題材としてノンフィクション『誘拐』を執筆し、1979年に『戦後最大の誘拐 吉展ちゃん事件』としてテレビドラマ化されました。

小原保の逮捕、犯行自供、吉展ちゃんの遺体発見を受けて1965年7月5日、NHKが放送した『ついに帰らなかった吉展ちゃん』というテレビ番組は59%の視聴率を記録しています。また、1965年の東映・朝日テレビニュース社の『臆(ああ)!吉展ちゃん』は事件発生から最悪の結末までを構成したドキュメンタリー映像です。

1966年の東映映画『一万三千人の容疑者』、1979年に『土曜ワイド劇場』の一作として放映された『戦後最大の誘拐 吉展ちゃん事件』、2014年のCX系『Mr.サンデー特別版・新証言&極秘資料入手『東京オリンピックと世紀の大犯罪』~追跡!封印された死刑囚たちの“正体”~』などがあります。

1963年の東宝映画『日本一の色男』には、本作とは一切関係ありませんが、主人公が行きつけとしている銭湯の壁に、吉展ちゃんの行方不明の内容の写真入りポスターが貼られているのが映っています。

また2015年から放送されたアニメ『コンクリート・レボルティオ〜超人幻想〜』では、吉展ちゃん誘拐殺人事件をもとにした「大鉄くん誘拐事件」という想像上の事件が描かれています。

吉展ちゃん誘拐殺人事件が世の中に与えた影響は大きい

死刑になった小原保という人物はだらしない人間で、借金問題が積み重なり犯行に及びました。時計店で働いていた頃は、問屋で仕入れ、店で販売するはずだった時計を勝手に個人的に売ってしまったり、修理に持ち込まれた時計を売ったりと実に身勝手な行為を繰り返します。借金も積み重なり、今のお金で60万円になっていました。

頭を抱えていた小原保は実家の福島に出向きお金の無心を考えますが、結局実家には顔を出さず野宿をして虚しく東京へ帰っています。また、映画『天国と地獄』を観て、子供を誘拐し身代金を得ようと考えたそうです。

戦後になって日本経済は右肩上がりに急成長していましたが、裏を返せば貧富の差が目に見える形で広がっていた時代でした。福島の貧しい家から東京に出てきた小原保からしてみれば、映画『天国と地獄』は虚構ではなく、現実そのものに見えていたのかもしれません。

現在のお金の60万円は、犯罪を犯してまで得るお金とは思えないような金額です。しかし、小原保はかなりの小心者だったのでしょう。借金のことで頭がいっぱいになり、完全に分別を失っていたと考えられています。

このように短絡的な思考しかできない貧しい生い立ちの小原保という人間性と、当時まだ完全に確立されていなかった誘拐事件の捜査方法が事件をこのような話題性のあるものにしました。また犯人の声をメディアに公開したということも大きな話題となりました。

吉展ちゃん誘拐殺人事件が世の中に与えた影響はとても大きなものです。戦後最大の誘拐事件と言われたこのような事件は、二度と繰り返されてはいけません。

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naogeba

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