小林薫死刑囚の生い立ちから死刑まで【奈良小1女児殺害事件】

奈良小1女児殺害事件とは、2004年に奈良県で起きた誘拐殺人事件です。奈良小1女児殺害事件の犯人である小林薫死刑囚はどのような人生を歩んできたのでしょうか。小林薫死刑囚の生い立ちや現在、この事件をきっかけに注目されたレーガン法についても紹介していきます。

小林薫死刑囚の生い立ちから死刑まで【奈良小1女児殺害事件】のイメージ

目次

  1. 1奈良小1女児殺害事件の概要
  2. 2小林薫の生い立ち
  3. 3小林薫の奈良小1女児殺害事件以前の犯罪歴
  4. 4小林薫の家族
  5. 5奈良小1女児殺害事件をめぐる裁判
  6. 6奈良小1女児殺害事件のその後と現在

奈良小1女児殺害事件の概要

奈良小1女児殺害事件とは、2004年に奈良県奈良市で学校から帰宅途中だった当時小学1年生の女児、有山楓ちゃんが誘拐、その後殺害された事件です。

犯人の小林薫は過去にも何度も犯罪を犯しており、奈良小1女児殺害事件の裁判では死刑判決が下りました。死刑は2013年に執行され、44歳でこの世を去りましたが、この事件で娘を失った家族や関係者の傷や悲しみは十数年経った現在でも癒えることはありません。

犯人の小林薫は何故このような事件を起こしたのでしょうか。また、どのような手口で少女を誘拐、殺害したのでしょうか。彼の生い立ちや家庭環境から殺人に至ってしまった経緯、事件発生から現在の様子までを紹介していきます。

2004年に奈良で起きた誘拐殺人事件

事件の始まりは2004年11月17日夜、当時小学一年生だった有山楓ちゃんの母親に「娘はもらった」と画像付きのメールが送られてきたところから始まります。このメールを見た家族は警察に相談し、誘拐事件としてすぐに捜査が始められました。その後、翌18日0時には平群町菊美台の宅地造成地の道路側溝で有山楓ちゃんの遺体が見つかりました。

司法解剖の結果水死と判明し、水道水を張った風呂場か洗面器に顔を押し付けて殺害されたと判断されました。服も殺した後に着させた痕跡があり、歯も数本が抜かれていました。また、遺体には別人の毛髪や体毛が付着しており、少女とは異なるB型の血液が検出されました。
 

その後、12月14日には有山楓ちゃんの携帯から「次は妹を狙う」と新たな誘拐を示唆するメールが家族に送られ、通信履歴などから特定された小林薫の自宅の家宅捜索が12月30日に行われました。そこで有山楓ちゃんのランドセルやジャンパーが見つかり、彼が犯行を認めた為、その場で小林薫の逮捕に至りました。

被害者は当時7歳だった有山楓ちゃん

同じ学校に通っていた2人の児童から被害者の有山楓ちゃんと思わしき少女が「自分から車に乗り込んでいた」という目撃情報があり、当初は知り合いによる誘拐だとされていました。しかし、児童らの証言からは車の色は黒、紺、もしくは白と報告されており、実際に使用されたハッチバック式の緑色のカローラ2とは大きく特徴が異なっていました。

犯人の小林薫と被害者の有山楓ちゃんは実際には面識がなく、たまたま一人で歩いていたためにターゲットにされてしまったようです。小林薫の当初はわいせつ行為だけが目的だったようですが、反抗されたことにカッとなり殺してしまったと供述しています。
 

しかし、死刑執行後に公開された小林薫の手記によれば「悪戯をするために女児に睡眠剤を大量に飲ませたのちに入浴させたところ、気が付いたら湯船の中で死んでいた」と書かれています。

誘拐してわいせつ行為をしようとしたのは事実ですが。小林薫が有山楓ちゃんを直接死に至らしめたのか、真相は現在でも闇に包まれています。どちらにせよ、彼が誘拐をしなければこのような惨劇は起こらなかったはずです。
 

犯人の名前は「小林薫」

奈良小1女児殺害事件の犯人の名前は小林薫です。彼は11月下旬からスナックに頻繁に通い、いつも一人でカラオケをしていたと従業員が語っています。12月下旬には、スナックの女性従業員に「これ写真なんや、本人やで」とインターネットで拾ったと言いながら、被害者の有山楓ちゃんらしき少女の遺体の写真を見せていたことも明らかになっています。

家宅捜索の際に100本近い幼児ポルノのビデオや雑誌、女児の下着や衣類、スクール水着などが約80枚が押収されており、後に小林薫はペドロフィリア、いわゆる小児性愛者と診断されました。逮捕当時はオタクであるとうわさが流れましたが、自宅からはフィギュアや同人誌などは見つかっていません。

小林薫の生い立ち

このような残虐な誘拐殺人事件を起こしてしまった小林薫は、いったいどのような人生を歩んできたのでしょうか。歪んだ性癖や人格は先天的なものであったのか、それとも生い立ちや周囲の環境によって形成されてしまったものなのでしょうか。

もちろん、当人にしか理解しえない経験や感情がそこには存在します。しかし、小林薫本人の供述や関係者の証言から見えてくるものもあるはずです。ここからは小林薫の生い立ちから彼がどのような人生を歩んできたのかをまとめていきます。

幼少〜中学生時代

小林薫は大阪市住吉区の燃料店を経営する両親の長男として生まれました。幼いころから父親に暴力を振るわれていた彼をかばっていたのが母親でしたが、その母親も彼が10歳の時に難産で亡くなってしまいました。

また、このときに生まれた弟に障害が残った為、父親や祖母は弟につきっきりになり、ほとんど構ってもらえなかったそうです。想像以上に不幸な生い立ちだったことが伺えます。
 

中学時代には左目の視力が低いことをきっかけに不良グループからいじめに遭っていたようです。いじめ自体は幼稚園時代から経験していたようで、更に父親からの暴力もあり、相当辛い日々を送っていたことが想像できます。

高校2年の夏にはクラブの合宿で鳥取県に行った時際に、宿泊していた旅館近くのマンションの踊り場で見かけた小学3年くらいの女児2人に悪戯をして逮捕されていました。やはり生い立ちやいじめの経験が彼の性格を歪ませてしまったのでしょうか、小林薫の犯罪は学生時代にはすでに行われていたのです。

高校卒業後

小林薫は1987年の3月に高校を卒業した後、大阪市内の飲食店に就職しました。しかし長続きせず小学生の頃にアルバイトの経験のあった新聞配達の仕事へ転職し、奈良県や滋賀県の販売店を転々としていました。

勤務態度が悪く、新聞の契約をねつ造をしたことが原因で解雇されたこともあったそうです。他にも現金の持ち逃げをするなど、窃盗行為も行っていました。お金にも困っていたようですが、まじめに働くということが続けられなかったようです。
 

小林薫は1989年12月に5歳の女の子2人に服を脱がせ、わいせつ行為をしたとして逮捕され、初めて実刑判決を受けました。さらに1991年10月にも5歳の女の子にわいせつ行為をしようとして抵抗した幼女の首を絞め、殺人未遂容疑で逮捕されました。2度目の逮捕では彼の生い立ちも考慮の上懲役3年の実刑判決が下り、初めて刑務所生活を送ることになります。

しかし、本人はまったく反省しておらず、釈放されるためだけに刑務所では真面目に過ごしていたようです。その為、3年間刑務所で生活したのちに予定通り1995年11月9日に仮出獄、1996年7月23日には釈放されました。

奈良小1女児殺害事件当時

小林薫は2004年初頭から大阪市東住吉区の毎日新聞湯里販売所に勤務していました。朝刊を配達する際に民家の物干しなどから女児の下着などを盗んでいたようです。そして、4月には集金した新聞代を持ち逃げしていました。その後、所長に居場所が見つかり、月に3万円づつ返済するという約束をしましたが、逮捕されるまでに完済はされていませんでした。

7月に小林薫は奈良小1女児殺害事件の犯行現場に近い、河合町の毎日新聞西大和ニュータウン販売所で働き始めました。しかし、それから殆ど経たない9月26日には北葛城郡内で当時6歳の小学1年生女児に声をかけ体を触り、強制わいせつ罪で起訴されました。

小林薫の奈良小1女児殺害事件以前の犯罪歴

ここまで読んでも、小林薫は奈良小1女児殺害事件以前から沢山の事件を起こしていたことがわかります。実刑判決を下されていないものや、刑事事件になっていないものもあり、もしかしたらこの他にも世に知られていない犯罪を犯したことがあったかもしれません。

ここからは記録されている彼の逮捕歴について紹介していきます。過去にはどのような事件を起こし、どのような判決が下されたのでしょうか。何故、彼は反省をせず殺人事件を起こすに至ってしまったのでしょうか。小林薫の生い立ちから想像しても、その心理は本人以外理解することは不可能なのかもしれません。

1989年:強制わいせつ罪

1989年12月、大阪府箕面市で5歳の女の子2人に服を脱がせ、わいせつ行為をしたとして逮捕されました。当時20歳だった小林薫は懲役2年、執行猶予4年、猶予期間中の保護観察処分の判決が下されました。しかしながら、彼は執行猶予の間に新たに犯罪を起こし、再び逮捕されてしまいます。

1991年:殺人未遂容疑

前述の逮捕の執行猶予の期間中、1991年10月に今度は大阪府住吉市内の団地で見かけた5歳の女児にわいせつ行為をしようとしました。この際、幼女が抵抗したため首を絞めたとして、今度は殺人未遂容疑で逮捕されています。

この事件では懲役3年の実刑判決が下りました。小林薫はすぐに刑務所に入りましたが、刑務所内では至って真面目に過ごしていた為、所内で指導や教育が行われることもなく、1995年11月9日には仮出獄を果たします。その後、1996年7月23日には仮釈放期間が満了して再び社会で生活が送れるようになりました。

2004年:窃盗、強制わいせつ罪

刑務所内では真面目を装って過ごしていた小林薫ですが、本人は当時からまったく反省していなかったそうです。また、刑務所から出て数年間は大人しくしていましたが、奈良小1女児殺害事件と同じ2004年には働いていた新聞の販売所から現金を持ち逃げしました。

同年、9月26日には北葛城郡内で当時6歳の小学1年生女児に声を掛け体を触るなどわいせつな行為をし、強制わいせつ罪で起訴されています。こういったように、犯罪者は一度罪を犯した後、立て続けに犯罪を繰り返すことは実際によくあることです。

小林薫の家族

幼少の頃の経験や生い立ちは人格形成に大きな影響を与えると言いますが、やはり、小林薫の家庭環境もとても良いものとは言えませんでした。もし、家族が仲良く暮らしていたら、親からの愛を得られていたとしたら、彼の人生はまったく違うものになっていたのかもしれません。ここからは明らかになっている小林薫の生い立ちや家族との関係を紹介していきます。

小林薫の父親

小林薫の父親は大阪市住吉区で燃料店を経営していました。裕福とは言えず、小林薫が小学生の頃に新聞配達のアルバイトをしていたことから経済的にも苦しかったことが伺えます。

父親は幼少のころから実の息子である小林薫にたびたび暴力を振るっており、父と子の関係はとても良くなかったようです。母親の死後も弟を優先して殆ど彼へ父親としての愛情を向けることはありませんでした。また、小林薫死刑囚の死刑執行の時点では既に病気で亡くなってしまっていることがわかっています。

小林薫の母親

父親の暴力からかばっていてくれていたのが小林薫の母親でした。しかし、彼が10歳の頃に母親は難産のためこの世を去ってしまっています。幼少時代に唯一の味方だった母親を失った悲しみは相当だったはずです。

小学校の卒業文集には、「僕は5時間以上泣いた」「いつか、お母さんのいる天国へ。お母さんとこんどあうときは人をいじめないようになってあおうと思う」と母に向けての言葉が書かれていたそうです。このことから、小林薫が母親をとても慕っていたことがわかります。

小林薫の弟

小林薫の母親が難産で亡くなった際に生まれたのが彼の弟でした。弟には後遺症が残ってしまい、祖母や父親が付きっきりで看ていたそうです。その為に家族から愛情を得られなかった兄・小林薫との関係はあまり良くなかったようです。

また、母親の難産の際に「母親を取るか、子供を取るか」との判断を迫られた際に父親が子供を選んだと言われています。暴力を奮っていた父への憎しみに加え、弟は小林薫にとって母の命を奪った憎い存在だったのかもしれません。

弟の詳細は明かされていませんが、奈良小1女児殺害事件後にインタビューを受けており、「だからといって、犯罪を犯してもいいわけないだろう!?」と兄に対する怒りのコメントをしています。

奈良小1女児殺害事件をめぐる裁判

2005年4月に奈良地裁で奈良小1女児殺害事件の初公判が開かれました。その際、検察側は被害者、有山楓ちゃんの両親の供述調書を提出しました。母親は「どうやってあの子の側にいこうかと思った」と自殺を考えたこともあったといいます。

しかし、3月27日の第6回公判で小林は「(情状鑑定で)どう答えれば悪い印象を与えられるかを考えた。元から死刑を望んでいるので、減刑は望んでいない」と述べるなどしました。弁護士が彼の生い立ちを考慮して欲しいという弁護も虚しく、誘拐殺人について反省している様子はなく、言葉通りに死刑を望んでいるようでした。

奈良小1女児殺害事件を含む8件の罪で起訴

小林薫は殺人に加えて強制わいせつ致死、脅迫、誘拐などの罪で起訴されました。これには同年9月の県内での別の女児への強制わいせつ罪や、滋賀県内での女性用衣類の窃盗罪も含まれ、起訴された罪の数は計8件にも及びました。

反社会性人格障害と診断

2006年2月14日には小林薫の情状鑑定書が奈良地裁に提出されました。精神鑑定は2005年10月~12月に東京医科歯科大に勤める犯罪精神医学の山上皓教授らが面接などを通じて行ない、犯罪などを繰り返す「反社会性人格障害」と診断しました。

反社会性人格障害とは社会的規範や他者への感情や権利を軽視し、自身の利益や楽しみの為だけに人に不誠実で平気で嘘をつく人格障害です。また、診断されるには幼少期に素行障害であった必要があり、この障害を持つ人は暴力を伴いやすい傾向にもあると言います。

死刑判決となり死刑囚として服役

2006年6月5日には論告求刑公判が行われました。検察側は「自己の性欲、支配欲、自己顕示欲を満たすための計画的な犯行で卑劣かつ極悪、残虐極まりない。被害児童の両親の処罰感情も峻烈。被告人は真しな反省や謝罪の態度を示していない上、更生意欲が欠如しており、矯正はもはや不可能」と指摘し、小林薫被告に死刑を求刑しました。

続いて2006年9月26日には奈良地裁の奥田哲也裁判長は「生命をもって罪を償わせるほかない」と求刑通り、死刑を言い渡しました。死刑囚となった小林薫は自席に戻りながら傍聴席に視線を向け、着席するとにやりと笑い小さくガッツポーズをし、目を閉じて何度か頷きました。その後10月10日に小林薫は控訴を取り下げ、死刑が確定しました。
 

奈良小1女児殺害事件によるミーガン法の導入

ミーガン法Megan's Law)(ミーガンほう)は、本来1994年アメリカニュージャージー州で成立した性犯罪者情報公開法[1]の俗称である。被害者女児の名を由来としている。その後他州や連邦レベルでも類似の法律が制定されるようになり、現在ではこれらを含めアメリカの性犯罪者情報公開法を一般的にミーガン法と呼ぶことが多い。一般に性犯罪者とよばれる人々をさまざまなメディア、場合によってはインターネット上に公開して身元を特定することを司法権力に要求するものである。

奈良小1女児殺害事件をきっかけにミーガン法を日本でも導入するべきだとの運動が起こりました。ミーガン法とはアメリカ合衆国のニュージャージー州で成立した法律で、性犯罪を起こした人の情報を一般に公開するという内容です。この誘拐殺人事件によって日本でも一気に注目された法律ではありましたが、結局導入には至りませんでした。

現在、性犯罪者の情報公開が行われている国は先進国ではアメリカ、イギリス、韓国の三カ国に留まっています。統計上、性犯罪の再犯率は決して高くなく、また犯罪者だけでなく被害者のプライバシーまで容易に暴かれてしまうという懸念もあり、日本を含め多くの国では現在でも法による情報公開を行っていません。

奈良小1女児殺害事件のその後と現在

現在、奈良小1女児殺害事件から10年以上が経過し、小林薫死刑囚の死刑も2013年に既に執行されています。小林薫死刑囚はどのような最後を迎えたのでしょうか。また、残された遺族たちはどのような思いで事件発生から現在までを過ごし、死刑の瞬間を見届けたのでしょうか。

小林薫死刑囚が最後に残した手紙や有山楓ちゃんの父親の書いた手記が現在、いくつか文章として残されています。ここからは裁判後から現在までの報道や手記の内容にについて紹介していきます。

2013年:死刑執行

2013年2月21日、大阪拘置所で小林薫死刑囚の死刑が執行されました。彼が44歳の時でした。裁判の時には早く死刑になりたいと判決を急いでいたような態度を見せていた死刑囚ですが、刑務所の中では生きることへの執着を見せていたとも言われています。

死刑台へと向かう際に「ふ、ふ、風呂とちゃうんか?」という台詞を発したという記述も見られます。もし、この台詞が本当だとしたらやはり小林薫死刑囚も死への恐怖を持っていたのでしょう。また、被害者の有山楓ちゃんの死因と同じ水死に絡めて発した台詞だったのかもしれません。

2014年:被害者の父親が手記を発表

小林薫死刑囚の死刑の翌年、2014年に被害者である有山楓ちゃんの父親が誘拐殺人に対する手記を発表しています。事件から10年が経ち、もし有山楓ちゃんが生きていれば17歳になっていたはずです。父は事件から10年経った現在の娘を亡くした無念や悲しみ、後悔をの気持ちを手記の中で以下の様に綴っています。

今年で楓が被害にあったあの日から10年が経(た)ちました。10年は長くも感じますが変わることのない悲しみや苦しみはあの日のままです。

あの明るい笑顔や仲の良かった姉妹、事件がなければ今はどんな毎日を送っていたのだろうと考えてしまいます。家族を守れなかった後悔はこれからも消えることは決してないと思います。普通に過ごす毎日がどんなに幸せか、何気ない会話がどれだけ楽しいか、奪われた命が私たちにとってどれだけ大きく大切であったかを痛感する毎日です。

手記の中では8年間の刑務所生活を送っていた小林薫死刑囚が何を思いながら日々を送っていたのか、真摯に罪を受け止めたのかは分からない、という内容も書かれています。仮に反省していたとしても、決して遺族の心の傷が癒えることはありませんが、やはり罪を悔いてほしいという思いはあるはずです。

そして、手記の中では娘への思いだけではなく、多発している誘拐や性犯罪、殺人事件に対する言及や社会の安心・安全を切に願う気持ちが記されています。被害者の遺族だからこそ説得力のある言葉です。

そして、2016年に奈良市では犯罪被害者・被害者遺族への支援条例が施行されました。現在でも定期的に「子ども安全の日の集い」という集会が開かれるなど、有山楓ちゃんの遺族を含め、多くの犯罪被害者の遺族の心の支えとなっているようです。

2016年には裁判中の2006年10月30日に小林薫死刑囚が遺族に宛てた書いた、便箋2枚の手紙が公開されました。

文章の中には「人として最低な行為で大切なお嬢さんの命を奪ってしまいました」「(両親の)意見陳述を聞いて涙が出ていたが、公判中に謝罪の気持ちを表したくてもできなかった」「お嬢さんが生き返るはずもなく、私への怒りは収まらないでしょうが、刑の執行をもって罪を償うしかない」など、死刑囚の心の内が書かれています。

手紙は当時、弁護士から県警の担当者を通じて遺族に渡してもらおうとしたもので、遺族側が受け取りを拒否した為にこのような形で10年以上が経過してから公開されました。しかし、小林薫死刑囚が何を思ってこの手紙を書いたのか、実際のところは本人にしかわかりません。

第二の小林薫を生み出してはいけない

残念ながらどんなに凶悪な犯罪も時と共に世間からは風化されていってしまうものです。しかし、現在でも被害者の遺族や関係者にとっては過去の事件では終えることはできません。一生涯被害者を失った無念や悲しみを背負って生きなければならないのです。

小林薫死刑囚の生い立ちを知ることで事件の見方が少し変わった人もいるでしょう。彼の胸中を他者が理解することは不可能であり、その生い立ちや彼の語った言葉や手紙を読んでも憶測をすることしかできません。ただ、確実に言えることは、どのような理由があれ人を誘拐したり殺人をしてはいけないということです。

 

現在でも新たな犯罪や誘拐、殺人事件が後を絶たないのが現状です。そういった犯罪を未然に防ぐために私たちは何ができるでしょうか。不幸な生い立ちの子供を作らないような社会づくりや教育、地域で安全を作っていく取り組み等もとても大切です。

奈良小1女児殺害事件のような悲しい事件や新たな被害者が増えないよう、各々ができることを考え、現在協力できる取り組みには積極的に参加していきましょう。

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