セウォル号沈没事故の詳細!事故原因や船長/生存者/遺族の現在は

セウォル号沈没事故は韓国最大の海難事故となった大型旅客船「セウォル号」が観梅島沖海上で転覆、沈没した事故です。この事故で多くの高校生らが亡くなりました。セウォル号沈没事故当時の船長や救助の様子、事件が起こった原因や現在の関係者や遺族の様子等に迫っていきます。

セウォル号沈没事故の詳細!事故原因や船長/生存者/遺族の現在はのイメージ

目次

  1. 1セウォル号沈没事故の概要
  2. 2セウォル号沈没事故の被害者たち
  3. 3セウォル号船長の沈没事故への無責任な対応
  4. 4セウォル号沈没事故の経緯【事故発生編】
  5. 5セウォル号沈没事故の経緯【事故調査編】
  6. 6セウォル号沈没事故の原因
  7. 7セウォル号沈没事故のその後と現在
  8. 8セウォル号沈没事故から見える社会構造

セウォル号沈没事故の概要

セウォル号沈没事故とは、2014年4月16日の午前9時になる少し前に、韓国の仁川(インチョン)港から済州(チェジュ)島に向かっていた大型旅客船「セウォル号」が、全羅南道珍島(チョルラナムドチンド)郡の観梅島(クァンメド)沖海上で沈没した事件です。

その当時、セウォル号には高校生325人と引率教員が14人、一般客108人、乗務員29人の合わせて476人が乗船していました。セウォル号の沈没当日は、霧が濃かったものの目立った暗礁はなく波も穏やかでした。そんな中で転覆、沈没という事故が起こってしまった原因とは何だったのでしょう。

韓国史上最大の海難事故

韓国では過去に292人の死者を出す「西海フェリー沈没事故」があり、この時は韓国史上最大と言われた海難事故でした。その運航会社はセウォル号沈没事故の運航会社と同じ「マルエーフェリー」で、建造した日本の造船所も同じだということです。

事故原因は後ほど説明していきますが、セウォル号事件の被害の甚大さは韓国の海難事故の中で西海フェリー沈没事故を上まわり、韓国史上最大の海難事故となってしまいました。

セウォル号沈没事故の被害者たち

上記でも説明していますが、セウォル号沈没事故の時乗船していた人数は高校生を合わせて476人でした。セウォル号沈没事故の被害者の多くは、修学旅行で乗船していた檀園高校2年生の高校生と教職員だったということです。

その影響で、2013年当時、韓国での10代の死因トップは「自殺」でしたが、セウォル号沈没事故により2014年は「運輸事故」となっています。
 

死者数

セウォル号沈没事故での死者数は高校生を含めて299人で、「西海フェリー沈没事故」の292人を上まわっています。そして、いまだに行方の分からない行方不明者が4人、救助の時に命を落とした捜索作業員も8人いました。

修学旅行中の高校生たち

高校生で生きて帰った人は現在83人です。最終的に高校生の死者や行方不明者は242人になっています。また、セウォル号の船内から回収された携帯電話から、事故当時の様子のメッセージが韓国政府によって公開されました。それにより犠牲者が遺族や友人とやりとりしたメッセージが明らかになっています。

一部のメッセージの内容は次の通りです。事故当日午前9時29分、「必ず私と連絡を取り合って」「海洋警察が巡視船を派遣したところ」「死なないで。生きて」というメッセージが残されていました。

その32分後、最後のメッセージでは「救助されましたか」と尋ねる内容で、その後携帯電話は繋がらなくなったということです。この電話の所有者は、後に死亡が確認されています。

セウォル号船長の沈没事故への無責任な対応

セウォル号沈没事故が発生した際、船長のイ・ジュンソクの行動は無責任極まりないものでした。この時の船長の行動は、殺人として扱ってもおかしくないと当時の世論では言われています。マスコミでも大々的に取り上げられ、船長が救助艇に乗り込む様子も映し出されていました。

高校生を含むたくさんの命を失う原因とされた船長の行動は、国内外でも多くの非難を浴びることとなります。また、遺族からも多くの非難の声が上がりました。

適切な避難誘導を行わなかった

セウォル号沈没事故が起こった時、船長のイ・ジュンソクは乗客の避難誘導をせず、真っ先に脱出しています。そして、最初に海洋警察の船で救出されているのがテレビでも報道されました。イ・ジュンソクは事故発生前は約40分ほど操舵室を空けていたそうです。

そして、事故発生の10分前に操舵室に来て会話をした後また操舵室を離れ、船長室にいた時に転覆事故が起きたようです。乗務員の証言によると、船長は船長室に戻ってからゲームをしていたのだと言います。これについて船長は、携帯メッセージを見ていたと証言しています。

自らが真っ先に脱出した

上記でも説明していますが、船長のイ・ジュンソクは事故が起きると真っ先に脱出しています。本来ならば、適切に避難誘導しなければならない立場の人間です。

救助された時のイ・ジュンソクの言い訳は、「尻が痛くて」というなんとも見当外れなものでした。そして、そこにいた救助隊員から「早く乗れ」と言われたので、指示に従って船に移っただけと主張していました。

更に船長だけではなく、機関士をはじめとする操船関係者の15名全員が、無事に脱出し救助されているのが確認されています。乗客の避難誘導をせず、救命ボートも下すことなく乗員優先の行動を取ってしまったのです。乗員だけが知っている専用通路を使って脱出したと見られています。

逮捕された船長

イ・ジュンソクは5月15日に逮捕されました。罪状は殺人未遂、水難救護違反、船員法違反容疑など多くが適用されています。イ・ジュンソクが病院に運ばれ、身分を聞かれた時「自分はただの船員だから何も知らない」などと答えたそうです。

そして、「尻が痛かったので飛び出したらそこに救助船が来ていた。隊員が早く乗れ、と言ったので乗っただけ」との証言をしています。

一部のマスコミでは、船長は現金20万ウォン(日本円で約2万円)の紙幣を乾かしていて、誰のお金かを乗組員と口論していたという情報も上がっています。また、警察の事情聴取では「私が操船していたら事故は起きなかった」とも発言していたことがわかりました。

船長の責任をめぐる裁判

その後船長の責任をめぐる裁判が行われています。最初は喫煙のために操舵室を出たと証言していた船長でしたが、下着姿だったことを問い詰められると、「船室でズボンを着替えようとしていたが、急に船が傾いたので慌てて出て行った」という証言に変えています。

そして、乗客の救護措置を取らないで脱出した動機について、「乗員がなんとか生きなければならない」と供述しています。この船長はセウォル号沈没事故の4年前に行ったインタビューでは「安全で快適な旅を提供する」や、「乗務員の指示に従っていれば船はどの交通手段よりも安全である」などと語っていました。

海の危険についてのインタビューの時には、「人はズル賢いが、危機を乗り越えることで改心する。そして私は今日まで船に乗っている」ともっともらしい事を語っています。現在の船長の様子が気になるところです。

セウォル号沈没事故の経緯【事故発生編】

セウォル号沈没事故の経緯を詳細に説明していきます。事故発生前や事故発生時はどのような状況だったのか、セウォル号の乗客が詳しく語っています。この事故では多くの犠牲者を出していますが、救出活動はどのような状況だったのでしょうか。

事故発生前

2014年4月15日、セウォル号は高校生らを乗せて、午後9時ごろに仁川(インチョン)港から済州(チェジュ)島に向けて出港しました。出航時間は午後6時半だったのですが、濃霧により視程低下となる恐れがあるため2時間半遅れの出港となりました。

4月16日8時49分37秒、セウォル号は珍島(チンド)の西側の孟骨群島(メンゴルド)との間にある孟骨水道を南東に向かって進んでいたところ、屏風島(ビョウブジマ)と観梅島(クァンメド)の間で突然南西方向に45度旋回し、傾き始めました。

事故発生時

4月16日8時52分ごろ、セウォル号はさらに北に向かって急激に旋回し、船体が横倒しの状態になりました。そしてそのまま船首を西に向けて、北方向に流されました。乗船していた男子学生の話では、「ドンという音が聞こえたと思ったら船が傾いた」ということです。そして、エンジン室にいた船員は「船の前の方に衝撃を受けた」と語っています。

また別の乗客は、「船が90度近くまで傾き、側面から一気に水が入ってきた」ということを話しました。

後部の客室にいた乗客の話では、「ドーンという大きな音と共に転んでしまい、下着姿だったが仲間と一緒に部屋を飛び出した。その時、すでに船が斜めになっていて廊下では乗客が騒いでいた。部屋に戻って服を着てまた部屋から出て、ヘリに救助されました」と語っていました。

もう一人の乗客は、「客室で妻と寝ていた時、強い衝撃でベッドから落ちかけた。部屋を出ると船は90度に傾いており、壁を歩いた。」と話しています。この方は数人の乗客と助け合って外に出たということでした。

救助活動

セウォル号沈没事故から約4時間半後、韓国政府は「368人が救助され、約100人が安否不明」という内容を発表します。しかしその3時間後には「300人が安否不明」と訂正されました。しかもセウォル号沈没事故が発生してから13時間経過しても、セウォル号の乗客のリストすら確定できていない状態だったと言います。

様々な虚偽の説明の中、救助活動は事件発生から24時間体制で行われました。4月19日からは高校生らの被害者遺族の意見を尊重して、魚を集める灯りを搭載した漁船も出航し救助活動をしています。しかし、新たな生存者が発見されないまま、海難事故において生存率が大きく低下するとされている72時間を過ぎてしまいました。

そのうえ、この救助活動の最中にも民間ダイバーが、5月6日に1名、5月30日に1名死亡しています。

テレビでは毎日のように救助の様子が中継され、多くの遺族たちが無事を祈る姿が映し出されていました。

4月19日午後11時35分には、官民軍合同の救助チームのダイバー達が斧を持ってセウォル号4階のコンパートメントへ進入し、窓ガラスを斧で割って内部の遺体を回収することに成功します。また、4月21日と23日には遠隔無人探査機(ROV)を投入して救助活動をしていますが、こちらは成果がなかったそうです。

5月1日、民間の潜水作業会社のダイバーが派遣され、ダイビングベル(潜水鐘)と一緒にダイバー3人で潜水したものの、セウォル号の船体4階後部にある客室入口付近で行く手を阻まれそれ以上進入することが出来ずに上がってきています。このように多くの悪条件から、事故から半月が経過しても救助活動がなかなか進みませんでした。

セウォル号沈没事故の経緯【事故調査編】

現在は引き上げが完了しているセウォル号ですが、セウォル号事件後の船体の引き上げは困難を要したようです。約1万4千トンもの巨大な旅客船は、どのように引き上げられたのでしょうか。また、引き上げ後の調査で発見された行方不明者はいたのでしょうか。

韓国政府では、セウォル号引き上げによる乗客全員の発見が最優先事項でした。しかし、セウォル号の引き上げが完了するまでに、実に1年以上かかる作業を要したということです。

船の引き上げ開始

セウォル号引き上げをするにあたり、様々な方法が検討されましたが、ようやくセウォル号の引き上げ作業が行われたのは、セウォル号沈没事故の発生から実に1073日目(約3年後)のことでした。

2017年3月22日午前から試験引き上げとはしけ船(内陸水路や港湾内で重い貨物を積んで航行するために作られている平底の船舶)の固定作業を行い、夜には本格的な引き上げ作業が行われることとなっていました。

翌23日午前11時に水面13mまで引き上げすることが目標でしたが、船体の姿勢が変わり、はしけ船とセウォル号が接触してしまったため、引き上げ作業を一時中断しています。

その後セウォル号の固定作業を行い、引き上げを再開して、午後2時にセウォル号が水面上6mまで、午後5時には8.5mまで引き上げられました。

しかし、その後車両積み込み用の船尾ランプが壊れて、引き上げワイヤーが絡まったため、引き上げ作業を中断しています。そしてダイバーが潜り、トラブルを解消した後に再度引き上げ作業を再開し、翌24日の11時ごろにセウォル号を水面上13mまで引き上げることに成功しました。

船内の第一次捜索

セウォル号引き上げ後の5月5日に、船内の第一次捜索で人骨が海底で発見されました。この人骨は、修学旅行生の引率で一緒にいた当時の檀園高校教師であることが、韓国海洋水産省がDNA鑑定で17日に確認されました。これでセウォル号の事件の死者は296人、行方不明者が8人になり、そのうち修学旅行で乗船していた学校関係者の犠牲者は242人になりました。

また、船体引き上げ後に見つかった遺体から身元が確認されたのは初めてになります。その後海底から3遺体が発見され、行方不明者の数は5人となっています。捜査が開始されて15日後の5月20日に船内の第一次捜索は終了しました。

船の引き上げ完了

2018年5月10日には、2017年4月に全羅南道(チョルラナムド)にある木浦(モクポ)新港に陸揚げされたセウォル号の船体を起こす引き上げ作業が始まりました。埠頭に設置された1万トン級の巨大クレーンで、ワイヤーを掛け、船体を引き上げる方法です。

船体調査委と現代三湖重工業は前日に試験作業を行い、セウォル号を約40度持ち上げることに成功しました。この引き上げ作業は、セウォル号を35度から90度まで6段階に分けて行われました。クレーンで船体を吊っている状態が長くなるほど危険が増すので、作業時間は4時間以内に完了させる予定だということでした。

船内の公開

セウォル号沈没の原因調査に当たっている船体調査委員会は、5月24日に引き上げられたセウォル号の内部を報道陣に公開し、今後の調査方法を説明しました。引き上げ後に横倒しのままの船体内部を調査し、行方不明の5人の捜索に当たりましたが、横倒しのままでは調べにくいということで船体を直立にしたのです。

調査委員会の話では、船体の左舷下部に衝撃を受けた形跡があることを発表しました。そのことから、原因は潜水艦などと衝突した可能性も考えられると指摘しています。セウォル号は現在、韓国の木浦で船体を直立にしたまま保管されています。

セウォル号沈没事故の原因

セウォル号沈没事故の原因は、様々な観点から検証することが出来ます。捜査が進むにつれ、利害関係を優先した船会社や知識の乏しい乗組員などの失態が明らかになりました。また、この事故の原因の根本を作ったセウォル号のオーナーは現在どうなったのでしょうか。

悪天候

2014年4月15日、高校生たちの楽しみにしていた修学旅行当日でした。その日は波は静かでしたが、濃い霧に覆われていたそうです。セウォル号は午後6時半の出発予定を繰り下げて午後11時出発に変更しました。大型の旅客船は視界が1km以上でないと船を運航することが出来ません。

この日の視界は800mだったということです。高校生たちは、旅行がキャンセルになるかもしれないと落ち込んでいたそうです。しかし船会社では、悪天候にもかかわらず出港を決めていたということでした。その理由は、400人以上の乗客を乗せないとなると赤字になるからだったそうです。

その後、午後9時に船会社ではセウォル号の出港を決行すると正式に決めています。その日の出港予定が組まれていた船は10隻でしたが、この中で出港を決めたのはセウォル号たった1隻だけだったということです。

予想外の出港に高校生たちは大喜びしたそうです。定刻から2時間半遅れの午後9時にセウォル号は出港しました。しかし、このように濃霧にもかかわらず出港させたことが事故の原因である可能性も否めません。

過積載

事故原因として挙げられている最大の原因が積載量です。セウォル号に積んでいい荷物は最大で987トンということでしたが、その日の積荷の総重量は3,608トンにものぼっていたそうです。これは安全が確保される貨物量の3倍の過積載になっています。さらに、この過積載を隠すためにバラスト水(船底に積む重しとして入れる海水)も減らしていました。

セウォル号はこれまでに158回運航していますが、貨物積載量が正常に積まれていたのは最初の試験運行の1回のみで、あとの157回は全て過積載であることが後に判明しています。しかもそのうちの107回の運航では、基準積載量の2倍に当たる2000トンもの積荷を積んで運航していました。

運航会社の問題

次に原因として挙がっているのが、運航会社の「清海鎮海運(チョンヘジンかいうん)」です。この会社では近年、衝突や故障などの事故が頻繁に起こっています。2011年4月には、エンジンの故障による622名の乗客を乗せたままの漂流事故がありました。

また、2013年3月には燃料フィルターの欠陥による漂流事故、さらに2014年4月にも他の漁船との衝突事故を起こしています。

そのほか、船の年齢である船齢制限も軽視していたと見られています。しかもこの会社の社員教育費はかなり低い予算で、年間54万ウォン(約53,000円)であったようです。そのことからも、非常事態に対する社員の認識が薄かったのが事故の原因ではないかともささやかれています。

かけるべきところに予算をかけず、過積載によって不当な利益を得ていた清海鎮海運の利益額は、29億5000万ウォン(日本円でおよそ2億9000万円)にもおよびます。事件当日にも船の過積載を指摘した従業員に対して、清海鎮海運はその訴えを取り合わなかったそうです。

2011年4月に起こした622名の乗客を乗せた時の事故では、セウォル号と同じく高校生が乗船していました。その時の一等航海士が今回の事故の船長であったようです。

その時も乗客には「待機」と指示しただけだったようです。そして、セウォル号が事件を起こす前から過積載で荷物が崩れる事故を起こしており、清海鎮海運では、警告を受けながら何の対策もしてこなかったようです。清海鎮海運の現在も気になるところです。

船長の離席

上記でも述べていますが、セウォル号事件の時、船長のイ・ジュンソクは操舵室を離席していたことが後の調べでわかっています。そして、乗客の避難誘導をせずに真っ先に脱出をはかっています。イ・ジュンソクは事件発生の約40分前にいったん操舵室を離れ、その後事件の10分前に操舵室に戻って会話をした後、またその場を離れました。

そして船長室に行き、ゲームをしていたという証言を乗務員から聞いています。しかし、イ・ジュンソクはゲームではなく、携帯のメッセージを見ていたと証言を否定しています。事故発生の時、船長は操舵室を離席していたことにより、船の操船を取っていたのは三等航海士だったそうです。

三等航海士の経験不足

セウォル号事件発生時に船長の代わりに操船していた女性三等航海士は新人で、船の操船は初めてだったということです。航海士の運行区間が変わったため、それまで操船していた一等航海士に代わって女性三等航海士が危険区間である孟骨水道の運航の指揮を執っていました。

危険区間は通常であれば16~18ノット(時速約29~33キロ)の速度で通行しなければならない区間です。しかし事件発生時は21ノット(時速39キロ)で運航しており、一度目の旋回の時は19ノット(時速35キロ)で曲がっています。そして2度目の旋回では5ノット(時速9キロ)に速度を落としています。

この2度の急な旋回によりセウォル号の船体が傾き、荷崩れを起こして事故の原因になったと考えられていました。女性三等航海士の証言では、「現場付近で速度を落として右に旋回するところをほぼ全速力で進み、方向を変えた」と供述しています。

全速力の21ノットとあまり変わらない速度の19ノットで旋回したため、操舵装置のバランスを失い、統制不能になったようです。その後の自動識別装置の記録では、16日午前8時48分37秒から49分13秒にかけての36秒間、停電が発生しています。

この停電直後に減速が始まりました。49分37秒から39秒間で17ノットで67度の旋回に入り、旋回を終えた時点で5ノットまで減速していました。さらに1分後の51分9秒には3ノットまで減速して、南西方向に船首を向け、北方向へ流されています。

女性三等航海士は、操舵角度を5度以上回せば沈没の危険性があることを知りながら、15度以上の旋回を行ったことでセウォル号を沈没させ、自分で原因を作っておきながら避難誘導を行わずに脱出した疑いで起訴されました。現在の女性三等航海士はどうしているのでしょう。

不適切な船体改造

セウォル号は1994年に日本で建造され、鹿児島県のマルエーフェリーが鹿児島から沖縄間を「フェリーなみのうえ」として運航していました。当時は5階建て、船底に近い部分が貨物甲板、2階には乗用車が約200台入る車両甲板、3階はレストランや売店などで、3階より上に客室がありました。

マルエーフェリーを2012年に引退した後、韓国の清海鎮海運に、別の船の増備用としてほぼ鉄くず同然で約8億円で売られています。

その際、最上階部分の船体後部に客室を増設したり、船首右舷側にあった貨物用ランプウェイを取り外すといった改造が行われ、重心が高く総重量も「フェリーなみのうえ」時代よりも増加させ、清海鎮海運は「韓国最大のクルーズ船セウォル」として大々的に宣伝しています。

この改造は違法ではないものの、船体下部に位置したランプウェイの取り外しにより船底が軽くなり、客室の船体後方への増設により重心が上後方に行き、舵を取るのが困難になっています。その上、最大積載量の3倍の貨物を積んでいたこともあり、事件の原因に繋がったとされています。

セウォル号の改造を行った全羅南道という会社は、2010年から船舶改装の業務に参入しており、大型旅客船の改装は初めてだったと言われています。また、改造後の十分な検証が行われなかったことも指摘されています。

船体検査制度の不備

セウォル号沈没事故の原因は、船体検査制度にも不備があったとされています。韓国での船舶改造をする際に、海洋水産部長官に対して許可を取る必要のある項目は、長さ、幅、深さ、用途の4項目で、「高さ」に関してはなかったようです。セウォル号は高さを改造していますので、民間団体の韓国船級協会の検査だけで許可が下りました。

また、セウォル号の救命ボートについても、点検を行った整備会社では検査していなかったことが明らかになっています。整備点検をしていないにもかかわらず、「良好」という報告の書類を韓国政府に提出していました。実際には救命ボートの金具は錆びており、船体を塗替えした時の塗料がボートに付着して、ボートは下ろせない状態になっていたそうです。

そして、事件の際には救命いかだが使われていますが、これも46艘あるうちのたった1艘だけで、他のいかだも救命ボート同様使用できない状態でした。

船体の故障

2014年2月にセウォル号の特別安全点検が実施された時に、5カ所に不具合があったことが指摘されています。それに対して清海鎮海運側は措置を取ったとの報告をしましたが、再点検を行っていなかったようです。その1つである「二重水密扉の作動不良」は、沈没後に生存を左右するエアポケットの発生条件に影響している可能性があります。

また、操舵機にも故障がありましたが、そのまま運航を続けていたとも指摘されています。セウォル号の事件前に船長(イ船長とは別の人)から操舵機の修正報告書が提出されていましたが、清海鎮海運の船の修理を担当している会社側にセウォル号の修理の事実はなく、修理を依頼されたという事実もありませんでした。

このことからも、清海鎮海運会社は船の修理の必要性を把握していたにもかかわらず、修理せずにそれ以降も無理な航行を続けていたことがわかります。

セウォル号沈没事故のその後と現在

セウォル号沈没事故で救助された方の中からも、事故後に死者が出ました。高校生を引率していた教師の一人で、高校の教頭でした。高校が一望できる丘の上で遺書を残し首つり自殺をしています。そんな中、セウォル号のオーナーや真っ先に脱出した船長や乗組員のその後はどうなったのでしょう。そして現在の様子も気になります。

遺族による訴訟

セウォル号の事件では高校生と他の乗客合わせて304人が死亡や行方不明となりました。救助が遅れたことで犠牲者が増えたとして、被害者遺族は韓国政府を相手取り、訴訟を起こしました。これに対してソウル中央地裁は、韓国政府の過失を認め原告118家族に対して1家族あたりの慰謝料2億ウォン(約2千万円)の支払いを命じました。

裁判では、事故当時の韓国大統領である「朴槿恵(パククネ)」の動向が不明な「空白の7時間」が問題になりました。ここにも様々な疑問点があります。セウォル号の事故報告を受けたのが午前9時半だったにもかかわらず、報告は午前10時に受けたと訂正されていたといいます。

このように大統領府にもおかしな動向が見られ、被害者遺族は韓国政府の消極的な態度で初動対応が遅れ、犠牲者が増えたと主張しました。

しかし、韓国政府はこれを認めませんでした。認めていないにもかかわらず、被害者遺族に対し1人当たり平均で4億3千万ウォン(日本円で約4300万円)の国家賠償を制定しています。しかし原告側の被害者遺族は「金による幕引きには応じない」と受け取りを拒否しました。被害者遺族の現在も気になるところです。

事件全体をめぐる裁判

韓国の裁判は、陪審員裁判と裁判官による一般の裁判の2通りあります。どちらの裁判を行うかは被告側が選択できるということです。セウォル号の裁判では韓国国民の反感が強いため、被告側は裁判官による裁判を選んでいます。

6月10日の予想では、イ船長を初めとした責任の重い立場の4人には死刑、残りの船員は懲役45年になると想定されていました。しかし11月11日の光州地裁の判決は、殺人罪で起訴された4人のうち船長は殺人を認めず遺棄致死罪で懲役36年、機関長は殺人罪と認定され懲役30年、他の乗員はそれぞれ懲役20年、15年となりました。

残りの乗組員は遺棄致死罪として懲役5年から10年を求刑されています。しかし、2015年4月28日の光州高裁で1審が覆り、船長には未必の故意による殺人罪を認めて無期懲役、機関長の殺人罪は認めず懲役10年、残りの13人に対しては、懲役1年6カ月から12年の判決を下しました。

現在の被告たちはどのような状態なのでしょう。被害者遺族のこの時の心境や現在の様子も気になるところです。

韓国政府に賠償命令

セウォル号沈没事故では、被害者遺族に対する賠償金や捜索費用など合わせると600億円余りが費やされています。しかし、セウォル号の過積載や船体の不正改造などがあり、保険の対象外となる可能性が高いため、韓国側はセウォル号の実質オーナーである兪炳彦(ユ・ビョンオン)に賠償金を支払わせる方針になりました。

仁川地検特別捜査チームは兪炳彦の総資産2400億ウォン(約239億円)の財産を差し押さえる手続きを裁判所に請求しました。これを受けて韓国政府は、6月20日清海鎮海運のオーナーである兪炳彦らに対し、4031億5000万ウォン(約404億円)の財産の差し押さえをソウル中央地裁に申し立てました。

しかし、実質のオーナーである兪炳彦は事故後に逃亡をはかって指名手配されましたが、その後果樹園で死亡していたことがわかっています。そして後に兪炳彦の資産を調べた結果、資産はなかったということでした。そのため現在の賠償責任は、兪炳彦の家族名義の資産(約200億円)を対象に行われたようです。

一方被害者遺族側は、2015年4月5日に行った海洋生産部の被害補償申請で、政府の賠償・補償金の支払いを拒否し、韓国政府に対して民事訴訟を起こすことを発表しました。

この理由として、政府の賠償・補償金の支払いに応じてしまうと、遺族から政府に対して異議申立てはしないという誓約を結ばなければならないからです。現在の被害者遺族の訴訟はどうなっているのでしょうか。

セウォル号沈没事故から見える社会構造

現在でも語り継がれているセウォル号沈没事故は、死者300人、行方不明者4人を出した大規模な海難事故です。これは韓国の危機管理意識の低さからくる、いわば韓国政府による事件と言っても過言ではありませんでした。

楽しみにしていた修学旅行が大惨事となってしまった多くの高校生たちの死は、被害者遺族にも悲しみを与える結果となり韓国中を騒然とさせました。セウォル号沈没事故から垣間見える韓国の社会構造は、利益を追求するあまり人命をないがしろにするというものでした。

この事件を期に韓国社会の危機管理の構造改革は良い方向へと進んでいくのでしょうか。現在も遺族の悲しみが癒えることはないでしょう。

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