新潟少女監禁事件とは!佐藤宣行の出所後の現在や佐野房子のその後は

新潟少女監禁事件とは1990年に新潟県三条市で9歳の少女が誘拐され、その後9年2ヶ月にわたって監禁された事件です。この記事では新潟少女監禁事件の全貌と加害者である佐藤宣行の出所後の現在や、被害者である佐野房子さんのその後についてご紹介します。

新潟少女監禁事件とは!佐藤宣行の出所後の現在や佐野房子のその後はのイメージ

目次

  1. 1新潟少女監禁事件とは
  2. 2新潟少女監禁事件の加害者・佐藤宣行とは
  3. 3被害者の監禁生活の状況とは
  4. 4新潟少女監禁事件の加害者・佐藤宣行の幼少期とは
  5. 5新潟少女監禁事件発覚のきっかけ
  6. 6新潟少女監禁事件によって警察の不祥事も明らかに…
  7. 7下った判決や被害者・加害者のその後
  8. 8新潟少女監禁事件の加害者は現在出所して生活していた

新潟少女監禁事件とは

新潟少女監禁事件とは、1990年11月に新潟県三条市の路上で9歳の少女が誘拐され、その後およそ9年間にわたって監禁された事件です。2000年1月、新潟県柏崎市の佐藤宣行宅の自室で被害者・佐野房子さんは発見されることとなり、その後、保護されました。

長期間に及ぶ誘拐監禁事件の発覚は日本国内を震撼させました。この記事では新潟少女監禁事件の全貌を明らかにし、加害者の出所後の生活や被害者のその後、現在に至るまでをご紹介します。

新潟少女監禁事件は一度失敗していた

佐藤宣行はこの新潟少女監禁事件を起こす1年前の1989年、自宅のある柏崎市内で別の少女を誘拐しようとした強制わいせつ未遂罪の現行犯で逮捕されています。この時の被害少女もまた9歳でした。

犯行を目撃していた少女の同級生が学校に伝えたことにより、教師らにその場で取り押さえられたため未遂に終わっています。この時、誘拐されそうになった少女は新潟少女監禁事件の被害少女とは無関係の別人です。佐藤宣行はこの誘拐未遂事件で懲役1年・執行猶予3年の有罪判決を受けています。

佐藤宣行は初犯であったため実刑を免れましたが、新潟少女監禁事件は一度失敗していたと言える誘拐未遂事件から始まった事件でした。

そしてこの逮捕の際には、のちに大問題となる警察内部における杜撰な事務処理の実態がありました。警察の不祥事は、新潟少女監禁事件発覚までにおよそ10年の歳月を費やすことになるという最大の不幸を招く原因の一つとなったのです。

下校中の少女(佐野房子さん)を誘拐・監禁

前述の誘拐未遂事件の約1年後、佐藤宣行は新潟県三条市の路上で、下校中の少女・佐野房子さんを発見し、誘拐しました。これが新潟少女監禁事件の始まりです。

その時、佐藤宣行は「女の子が可愛かったし、側に誰もいなかったので」誘拐を決意したとのことです。ナイフを胸に突き付けて佐野房子さんを脅迫し、車のトランクに押し込んで連れ去りました。車内で佐野房子さんは左右の手首や両膝を粘着テープで拘束されたうえ、目隠しまで施されました。

それは、騒いだり暴れたりしないためと監禁場所となる自宅の周辺景色を知られないためでした。その後、車は柏崎市の佐藤宣行宅に到着し、9年にわたる監禁生活がスタートしたのです。

新潟少女監禁事件の動機とは

佐藤宣行が新潟少女監禁事件を起こした動機とは何だったのでしょうか。まず、佐野房子さん誘拐時について、佐藤宣行が「女の子が可愛かったし、側に誰もいなかったので」と犯行動機と取れるような供述をしていたことが引っ掛かるのではないでしょうか。

普通の人の感覚であれば、「可愛い少女→誰もいない→自宅に連れて帰ろう」という極めて自分勝手な考えがそのまま行動になることはありません。これについては、分裂病型人格障害や自己愛性パーソナリティ障害という佐藤宣行が逮捕後に診断された精神疾患の影響によるところが大きいでしょう。

可愛いから自宅に連れて帰るという異常な行動は、「その場にそぐわない感情または限定された感情は、良好な対人関係を保つのに必要なことをうまく扱えない。」という分裂病型人格障害の特性から説明することができます。

ここでいう「その場にそぐわない感情」とは佐藤宣行の「自宅に連れて帰ろう」という思い立ち、そしてそれをそのまま実行してしまうという点です。

また、「他者を蔑み軽んじることで内在された自己の脆弱性を補おうとする」自己愛性パーソナリティ障害の側面からしても、その後の被害者への脅迫的文言の数々や暴力なども合点がいくものです。

自宅で監禁…連れ込んだ方法とは

佐藤宣行は誘拐後、柏崎市にある自宅の一室で佐野房子さんを監禁していました。新潟少女監禁事件がまさに開始された時に同居していた母親は、息子が少女を誘拐し自室に監禁しているという犯行に全く気づいていなかったと言います。では、佐藤宣行は佐野房子さんを母親に気づかれずにどうやって自室へと連れ込んだのでしょうか。

自宅に到着した佐藤宣行はまず、車を普段停車させる母屋の正面玄関ではなく、自室のある増築部分の玄関前に停車させました。佐野房子さんを車外に下ろし、抱きかかえて2階の自室へ置いたあとに車を正面玄関に回すことで何事もなかったかのように装って自室へ移動していました。

監禁中は被害者を友人だと思っていた

佐藤宣行は新潟少女監禁事件の裁判で、佐野房子さんのことをかけがえのない話し相手と述べ、「自分は少女とうまくやっているし、友人だと思っていた」と供述します。当然ながら、そう思っていたのは佐藤宣行だけでした。

被害者の佐野房子さんは、男とは一緒にいたかったわけではないと供述しています。為す術がなく仕方なく一緒にいたということでしょう。佐野房子さんはその当時の辛い心境について、「見えないガムテープで手足を縛られているような感覚」であったと語り、生きるためにはこの部屋を出るべきではないと判断したのだといいます。

新潟少女監禁事件の加害者・佐藤宣行とは

9年2ヶ月にわたって監禁を続けていた新潟少女監禁事件の加害者、佐藤宣行とはどのような人物だったのでしょうか。この事件を起こす前からも非常に問題の多い人物であったことは前述のとおりです。過去、実際にあったエピソードとともに佐藤宣行という人物を探っていきます。

事件当時は29歳で無職だった

佐藤宣行は新潟少女監禁事件当時、29歳で無職でした。高校卒業後、機械部品を製造する会社に就職したものの人間関係がうまくいかず3ヶ月で退職しています。当時、機械部品製造会社への出勤途中に佐藤宣行は立小便をしました。その時に小便が蜘蛛の巣にかかって汚れたという理由で会社には向かわず家に引き返したという奇妙なエピソードがあります。

それ以外にも奇妙な行動が多く、3ヶ月で退職して以降はずっと仕事に就いていません。いわゆる「引きこもり」の状態にありました。新潟少女監禁事件発覚当時、「引きこもり」という社会不適合者が起こした犯罪ということで報道は過熱しました。

父親からの遺伝?不潔恐怖や潔癖症だった

新潟少女監禁事件を起こした佐藤宣行を語るうえで重要な要素となるのが、佐藤宣行が強迫性障害に起因する不潔恐怖の症状があるということです。強迫性障害とは、強い不安やこだわりで日常生活に困難をきたす病気のことです。この「こだわり」が不潔なもの、汚れや細菌などでそれに強い不安を感じる不潔恐怖、いわゆる潔癖症として表れています。

佐藤宣行にはタクシー会社を経営する高齢の父親がいました。この父親もまた潔癖症で、乗車するタクシーの洗車を暇さえあれば頻繁に行っていたというのです。このような父親の行動が不潔恐怖として息子である佐藤宣行に遺伝したと考えることができるでしょう。

父を家から追い出していた

佐藤宣行は父親が63歳、母親が38歳の時の子で両親から溺愛されて育ちました。小学校に上がった頃、佐藤宣行は友達に「おじいちゃんみたい」とからかわれる父親のことを疎ましく思い始めます。老いを汚いもの、醜いものという感覚に捉えるようになった佐藤宣行は、父親に対して暴力を振るうようになりました。

暴力を振るうだけに飽き足らず、父親を80歳の時に家から追い出します。息子に追い出された父親は、その3年後に介護施設で亡くなったようです。佐藤宣行の自己中心的で偏った考えや行動が顕著に表れています。息子に服従する両親を佐藤宣行は軽視し、家庭内で権力の頂点に君臨していました。新潟少女監禁事件の片鱗が見える恐ろしい出来事です。

火事を起こしかけたことも…

前述の父親を追い出した直後、佐藤宣行は母親と口論になりました。それもそのはずです。勝手に父親を追い出したわけですから、さすがの母親も息子のやったことに素直に従えるはずがありません。母親は「自分も出ていく」と言ったようです。しかし、この言葉に激昂した佐藤宣行は仏壇に火をつけ火事を起こしかけたのです。

自分が追い出した父親を母親がかばうことに勝手に腹を立て、自分を捨てて出て行こうとする母親の態度も我慢ならなかったのでしょう。自分の思い通りにならないことがあればすぐ暴力的な行動を起こすということが日常化していました。

被害者の監禁生活の状況とは

ここでは、新潟少女監禁事件の9年2ヶ月に及ぶ監禁生活の状況を詳しく見ていきましょう。被害者はどのような生活を強いられていたのでしょうか。そこには想像を絶する耐えがたい状況の数々と、おぞましい監禁の実態がありました。

新潟少女監禁事件は9年間という長期間続いた

新潟少女監禁事件は9年2ヶ月に及びました。この9年間という長期間、被害者の佐野房子さんは逃げる機会がなかったのでしょうか。佐野房子さんは監禁生活の中で、脅迫的な言葉を繰り返し浴びせかけられ、顔面殴打などの激しい暴力を受けていました。

最初の2、3ヶ月は両手足を拘束されたままの生活を強いられました。その後、両手の拘束は解かれたものの、両足は1年間、拘束されたままでした。この期間で佐野房子さんの脱出の意思は完全に削がれてしまったのです。

発見後に一部の間では、9年2ヶ月の間で逃げる機会が一度もなかったことに対して疑問を呈す動きもありました。監禁生活中、佐野房子さんはストックホルム症候群の状態にあったのではないかと推測されました。監禁されるうちに犯人へ共感を示すようになり、犯人と運命共同体であるかのように錯覚し始めるのがストックホルム症候群の症状です。

しかし、佐野房子さんはその後の新潟少女監禁事件裁判で、「手足を縛られなくなってからも常に見えないガムテープで縛られているような感覚」であったと監禁生活を振り返り、決して男と一緒にいたかったわけではないとしています。

実際に被害者に振るわれた暴力とは

新潟少女監禁事件の監禁生活初期は、佐野房子さんに対して脅迫的な文言を浴びせたり、顔面を数十回殴打したり、ナイフを突きつけたりといった激しい暴力が繰り返し行われました。また、大声を出さないことや暴れないこと、部屋のベッドの上から勝手に降りないことなどの命令もありました。これらを破った場合にも痛めつけられました。

1年目からはスタンガンによる暴力も追加され、男の言いつけを守らなかったり、苦痛で声を上げてしまったときには「スタンガンの刑」と称して暴力を振るわれたのです。スタンガンによる暴力の痛みで声をあげそうになった佐野房子さんは、叫び声をあげれば殺されると思い、自分の身体や毛布を噛んで耐えていたと言います。

9歳~10歳の少女を精神的にも肉体的にも極限の状態に追い詰め、残虐な暴力を繰り返し振るっていた佐藤宣行には同情の余地もありません。

監禁の間の衣食住はどうしていた?

男の部屋から発見された際、佐野房子さんは重度の栄養失調でした。その他にも両下肢筋力低下や骨粗鬆症、鉄欠乏性貧血などさまざまな疾患が認められ、通常歩行は不可能な状態でした。監禁の間の佐野房子さんの生活は一体どのようなものだったのでしょうか。

衣服については、ボロボロになるまで同じ服を着せ続けられたようで、着れなくなったら近くのスーパーで万引きしてきたものを着せていたといいます。単純にお金が無かったということでもありますが、女児の服を買えば不審に思われるからです。監禁生活中に繰り返し行われたこの万引きは後々、佐藤宣行の実刑判決に大きく影響することになります。

また、食事については、佐藤宣行の母が男の夜食用に作っていた重箱詰め弁当を当初は与えられていましたが、母の負担軽減のため、途中からはコンビニ弁当に切り替えられました。監禁から6年が経過した頃、佐藤宣行は佐野房子さんの足にあるあざを発見しました。

これを糖尿病の兆候と思い込んだ佐藤宣行は佐野房子さんの食事を1日1食に減らしました。佐野房子さんは体調が悪化し、体重もみるみる減っていきます。そのうち、失神を起こすようになりますがそれでもおにぎりを1つ追加するだけの対応でした。

シャワーは9年間で一度だけ

入浴については、9年間でたった一度だけだったといいます。佐野房子さんがベッドから誤って落ちてしまった際、埃まみれになってしまったからということでした。このたった1回のシャワーのときですら、目隠しをされたままの状態でシャワーを浴びせられました。

不潔恐怖の傾向がある佐藤宣行ですが、同じ部屋にいる少女が入浴しないことには何の抵抗もなかったのでしょうか。とても不可思議な点です。

排泄などはどうしていた?

佐藤宣行は強迫性障害による不潔恐怖であったため他人が使ったトイレは使用できません。そのため、日頃からビニール袋に排泄している自分と同じように、佐野房子さんにもそうさせました。排泄後の袋は部屋の外にある廊下に並べていたといいます。

潔癖症にも関わらず、佐藤宣行はなぜ排泄物の入ったビニール袋を廊下に取っておいたのでしょうか。それは、強迫性障害によるところの不潔恐怖という部分が大きく影響しています。これは、単なる潔癖症の話ではなく、不潔と感じる感覚の違いがあります。佐藤宣行の感じる不潔とは、他人が使ったトイレであって、排泄物そのものではないということです。

新潟少女監禁事件の加害者・佐藤宣行の幼少期とは

新潟少女監禁事件を起こした加害者、佐藤宣行の行動の数々は普通では考えにくいものでした。前述のとおり、佐藤宣行には持病の不潔恐怖をはじめとする強迫性障害の症状があり、その後、分裂病型人格障害や自己愛性パーソナリティ障害と診断されるに至っています。

常軌を逸した行動の裏には、このような精神疾患や育った家庭環境などが事件の成立や長期にわたる監禁の継続に大きな意味をもたらしています。ここでは、人間形成に深く影響を与えたと言える佐藤宣行の幼少期を辿っていきます。

小さい頃は望むもの全てを与えられていた

佐藤宣行は小さい頃、望むものは全て買い与えられたそうです。これには、佐藤宣行の父親が63歳、母親が38歳の時の子ということで高齢で授かった子供であったということも大きな理由でしょう。年齢を重ねてから生まれた我が子であれば、孫のような可愛さを感じることは想像に難くありません。

たったひとりの息子が望むことは何でもしてあげたいという思いに至ったのでしょう。また、父親は柏崎市でタクシー会社を経営しており、母親は保険の外交員で営業成績も非常に良かったとのことです。金銭的にもずいぶん余裕があったことが伺えます。

父母共に溺愛ぶりは近所でも有名

佐藤宣行に対する父母の溺愛ぶりは近所でも有名でした。父母ともに高齢で授かった子であり、その溺愛ぶりが世間一般よりも過度になってしまうことは仕方ないことでしょう。母親の溺愛ぶりは佐藤宣行が成人しても続きました。アイドルのレコードや競馬新聞、息子が欲しがるものは何でも買いに走る母親は商店街の有名人でした。

息子を競馬場まで車で送り迎えする姿もまた、競馬場関係者の間でも有名だったようです。母親は息子を送り届けた後、レース終了まで最寄りのベンチで待機していたという情報もあります。両親の生活の中心はとにかく息子である佐藤宣行で、全て彼の思い通りの行動をとっていたのです。

心理的発達段階「肛門期」で失敗したという説も

「肛門期」とは心理学者であるフロイトが提唱する幼児期の5つの心理的発達段階のうち、2段階目のことです。年齢でいうと2~4歳頃の時期になります。この時期の幼児は欲求を即座に満たそうとする傾向があるので、トイレトレーニングを行なわなければどこでも即座にうんちをしてしまいます。

親の教育によって次第に排泄の場所やタイミングをコントロールできるようになっていきます。うまく排泄ができるようになるとそれが自信につながり、我慢する力や何かを諦める力などの自律性を獲得できるようになります。自律性を養うこのトイレトレーニングの過剰や失敗をすると、子供のパーソナリティにさまざまな影響が出てしまう可能性が高いのです。

例えば、トイレトレーニングを過度に強要したり、清潔さやタイミングに厳格であったりすると、物を捨てられないケチな性格になる傾向があります。またフロイトによると、子供はうんちを幼児やお金に象徴交換するという傾向にあるようで、この「幼児に象徴交換」という点において小児性愛に結びつくものと考えられました。

今回の新潟少女監禁事件でも、佐野房子さんの排泄物をビニール袋に入れて廊下に並べていた佐藤宣行の行為にも重なります。これも、自身の性愛の象徴が佐野房子さんの排泄物であり、捨てられないものだったという解釈ができるでしょう。

新潟少女監禁事件発覚のきっかけ

新潟県三条市で少女が行方不明になってから未解決のまま9年の歳月が流れました。この誘拐事件が風化されつつあった頃、誰もが予期せぬ形で少女が発見されます。それは、長期にわたる監禁という驚くべき事件の発覚をも意味するものでした。ここでは、新潟少女監禁事件の発覚の経緯や発見時の様子などを確認していきます。

新潟少女監禁事件発覚の原因は母への虐待

少女が行方不明になってから9年2ヶ月、新潟少女誘拐事件は予期せぬ形で明るみになりました。発覚のきっかけは、加害者である佐藤宣行による母親への度重なる虐待でした。

佐藤宣行は少女を監禁する前から、自宅の障子や窓ガラスを破壊するといった暴力行為を繰り返していました。監禁開始から5年後、母親は保健所に息子の家庭内暴力を相談しています。この時、職員は母親に家庭訪問を打診しましたが、息子が暴れると断りました。代替案として出された向精神薬の服用を佐藤宣行にさせることになりました。

しかし、佐藤宣行は監禁発覚の1年程前から母親にもスタンガンを使用し始めたのです。息子の家庭内暴力の激化に耐えかねた母親は医療機関に相談し、担当医の勧めに母親も同意する形で強制保護することになりました。

強制保護を行ったことで少女を発見

2000年1月28日、強制保護実施のため、医療関係者や保健所職員、市職員などで編成された特別チームが佐藤宣行の自室へ踏み込みました。

医師が「お母さんの依頼で診察に参りました」と扉の前で声を掛け、返事を待たずに入りました。佐藤宣行は黙って入ったことに抗議し、入院が必要であると医師に告げられると激しく暴れ出したため、最終手段として鎮静剤を打たれ、眠りに落ちたのちに病院に搬送されました。

佐藤宣行が暴れた際には、事前に強制保護があることを伝えていた柏崎警察署に保健所職員が応援要請の連絡をしていました。しかし、人が出払っているということで一旦は断られています。

警察が到着する前に、医師の判断によって暴れる佐藤宣行に鎮静剤を打ったことで事なきを得ましたが、この判断が少しでも遅れていたらその場にいた人達に危害が加えられていた恐れもあります。このときの柏崎署の対応も、のちに警察の不祥事につながる問題となって取り上げられることになるのです。

発見時の少女と職員のやりとりとは

佐藤宣行が病院に搬送された後、関係者はこの騒動の間に動いている気配のあった毛布の塊に注目しました。市職員がハサミでこの毛布を切り開くと、中から異様に白い短髪の少女が現れました。佐野房子さんが発見され、この新潟少女監禁事件が明るみになった、まさにその瞬間でした。

市職員が「あなたは誰ですか。話をしてください。名前は?どこから来たの?」と尋ねましたが、気持ちの整理がつかないということで少女は口ごもります。

少女とまともな話が出来ないため、医師は階下にいる母親を呼び寄せてこの少女が誰なのか尋ねました。しかし、母親は「知りません。顔を見たこともない。」と答えたといいます。その後、医師は佐藤宣行は入院することになったのでここにはいつ帰ってくるかわからないことを説明し、佐野房子さんにこれからどうするか尋ねました。

それを聞いた佐野房子さんは母親に向かって「ここにいてもいいですか。」と尋ね、母親もそれに了承しましたが、市職員が「そういう問題じゃないでしょ。家の人に連絡しないとダメよ。」とたしなめると、「私の家はもうないかもしれない。」と答えたのです。このようなやりとりの末、少女と母親を含む一同は車に分乗して病院に向かいました。

新潟少女監禁事件によって警察の不祥事も明らかに…

新潟少女監禁事件は佐藤宣行による犯行についてだけではなく、事件成立以前から発覚後に至るまでの警察の対応や杜撰な捜査などが注目され、警察の不祥事として世間から猛バッシングされました。ここでは、新潟少女監禁事件以上に大きな問題となった警察の対応や動きを4つに絞ってご紹介します。

①捜査対応がとにかく杜撰だった

佐藤宣行は新潟少女監禁事件を起こす1年前にも新潟県柏崎市で別の少女を誘拐しようとし、強制わいせつ未遂で現行犯逮捕されています。この時は初犯であったため実刑には至っていませんが、新潟少女監禁事件はこの事件の執行猶予期間中の犯行でした。

しかしながら、柏崎市の性犯罪者リストから佐藤宣行の記載が漏れていたことが新潟少女監禁事件後に発覚しています。もしリストに記載があれば、佐野房子さん誘拐事件の被疑者として捜査対象に入っていたはずですし、新潟少女監禁事件はこんなに長期化することもなかったでしょう。警察の捜査がいかに杜撰な対応であったかが伺えます。

②少女発見時の職員への対応

保健所職員は強制保護実施が決まった段階で柏崎警察署生活安全課に通知し、実施当日に男が暴れた際には警察の応援が必要と判断して警官3名の派遣を要請しました。しかし生活安全課から、人員が出払っているため折り返し連絡すると伝えられていました。少女発見時、保健所職員は病院で生活安全課から折り返しの電話を受けました。

身元不明の女性が見つかった旨を伝え、改めて出動要請をしたのです。しかし、電話口の生活安全課係長からは「そちらで住所、氏名をきいてくれ。そんなことまで押しつけないでくれ。もし家出人なら保護する。」との返答であったといいます。これは事実上、出動の拒否でありその後の警察バッシング報道に加担する出来事のひとつになりました。

③母親の虐待相談時の対応

母親は息子の佐藤宣行による家庭内暴力の相談で1996年1月に初めて保健所を訪れています。しかし、これより前に柏崎警察署を訪れていることもわかっています。まず警察に赴き、母親は息子の家庭内暴力を相談しましたが、「子供の暴力は保健所に相談してくれ」というような対応をされ追い返されたといいます。

また、のちの県警本部長の会見では母親が柏崎署に相談に訪れた際に記入されたはずの相談簿の紛失も取り上げ、それを謝罪しています。母親からの相談を取り合わなかったことも問題ですが、この相談簿の件はもしかすると記入すらしていなかったのではという疑念も湧いてくるような出来事でしょう。警察の職務怠慢を指摘されても仕方のない話です。

④発見報告時の接待麻雀

この新潟少女監禁事件で少女が発見された時、新潟県警本部長ら県警幹部達は各地の警察を視察に回っていた監査チームトップの関東管区警察局長を接待するため新潟県三川村のホテルに1泊する予定でした。本部長らはホテルに向かう車中で、「9年2ヶ月前に三条市で起こった少女誘拐事件の少女が発見された」との一報を受けています。

その後、ホテルの宴席上には続報が次々と寄せられており、この様子に局長も県警本部へ戻るよう促したとのことでした。しかし本部長らは県警本部へ戻るどころか、食後の接待麻雀にも参加するなどしていたのです。

翌日も局長をハクチョウ飛来の名所などに案内しており、局長が東京へ戻った後も本部長は県警本部ではなく県警公舎に帰宅しています。被害者発見の報告を受けながら接待麻雀を続けていたということは当時、世間から猛反発を受けました。

また、新潟少女監禁事件そのものよりも接待麻雀が当時クローズアップされた背景には、警察組織による図書券を景品とした接待麻雀だったという点も大きいでしょう。金銭を賭けたものではないとはいえ、世間の嘲笑を買ったことには間違いありません。

下った判決や被害者・加害者のその後

最後に、新潟少女監禁事件で佐藤宣行に下った判決の内容や、加害者である佐藤宣行の出所や現在、被害者である佐野房子さんのその後や現在についてなどを時系列で追っていきます。加害者は現在、刑期を終えて出所しているのでしょうか。新潟少女監禁事件発覚から18年、加害者と被害者のそれぞれの現在はどのような状況にあるのかご紹介します。

下った判決は懲役14年

新潟少女監禁事件で最高裁が下した判決は懲役14年です。通常、少女を監禁したことによる量刑は未成年者略取罪と逮捕監禁致傷罪となり、これらでの最高刑は懲役11年です。しかし、最高裁はスーパーでの万引きを併合罪として加算すれば懲役15年まで引き延ばすことが可能と主張する原告(被害者)側の求刑を認める形で判決を下しました。

この新潟少女監禁事件によって、誘拐し監禁したことによる量刑の妥当性についてや併合罪適用の是非など刑法上の問題を指摘する声が多くあがりました。その後、新潟少女監禁事件がきっかけとなって2005年に刑法が改正され、現在では逮捕監禁致傷の懲役及び禁錮の上限は10年から15年に引き上げられています。

現在すでに出所している

新潟少女監禁事件によって懲役14年の判決を受けた佐藤宣行ですが、2018年現在は服役を終えており、すでに出所しています。事件の前後に患っていた精神疾患については、服役中も治癒することはなく医療刑務所へ保護入院を繰り返していたと伝えられています。出所後の現在も症状は改善されていないということです。

また、長らく患っていた不潔恐怖の症状により、刑務所内で普通の食事は一切取れないので流動食を食べていたことや、服役中に向精神薬を処方されていたことで現在は障害者手帳が支給されているなどの情報もあります。障害者手帳が支給されたということは、出所後の現在、佐藤宣行が何か事件を起こしたとしても実名報道されることはありません。

新潟少女監禁事件のように世間を震撼させた重大事件を犯した人間が出所後に再び事件を起こしたとしても実名報道されないというのは、世間的に納得いかない話ではないでしょうか。出所後の現在、自分の身近で犯罪者が普通に生活しているかもしれないというのはとても恐ろしいものです。

発見された被害者の当時の状況

新潟少女監禁事件の被害者、佐野房子さんは発見時、長年にわたる監禁生活の影響で自力で立つことが出来ませんでした。しかし、発見当日の夜に病院へ駆けつけた母親とは9年2ヶ月ぶりの再会でしたがしっかり話すことができ、関係者との会話も問題なく行なえました。その後の捜査でも、同年代と比較して目立った知力の遅れはなかったとのことです。

これには、新潟少女監禁事件の監禁生活中に、男が虐待の一方で漫画や新聞、テレビやラジオなどの情報ツールを少女に与えて男の話し相手になるよう教育していたことが起因していました。佐野房子さんは佐藤宣行の独自の論理によって必要だと考えられた方程式や数学なども学んでいました。

被害者の現在とは

9年2ヶ月にわたって監禁された被害者の少女、佐野房子さんはその後、現在はどうしているのでしょうか。少女は発見時、ひどく痩せこけており、自力での歩行も不可能なほどに衰弱していました。

長期の監禁生活やその間に受けた精神的暴力から起こる心的外傷後ストレス障害(PTSD)の発症も認められています。発見時は他者とのコミュニケーションも初めて会う人や異性には全く心を開くことができないなど深刻なものでした。

しかし、悪い状況ばかりが続いていたわけではありませんでした。発見から2年後、佐野房子さんは成人式に出席しており、その数年後には運転免許を取得するほどに回復しています。その後も家族と旅行に出掛けたり、スポーツ観戦を楽しんだりと緩やかに日常生活を取り戻していったようです。

新潟少女監禁事件で佐野房子さんが誘拐された当時は9歳の少女でしたが、現在は37歳前後の女性です。おそらく、現在は社会人として普通に働いていたり、結婚して子育てをしていたりと平穏な日常を送っているでしょう。

事件の被害者ということもあるので現在の詳しい状況は明らかではありませんが、佐野房子さんは佐藤宣行が刑期を終えてすでに出所していることは知っているのではないでしょうか。

新潟少女監禁事件の加害者は現在出所して生活していた

前述のとおり、新潟少女監禁事件の加害者である佐藤宣行は現在すでに出所しています。服役中には障害者2級として障害者手帳が支給されているようです。障害者2級とは「他人の助けを必ずしも必要とはしないが、日常生活は極めて困難であり労働により収入を得ることができない」とされる状態です。

出所後の生活は、おそらく定職につけるような状況ではないため生活保護を受給しながら自宅とは別の場所でひっそりと暮らしているのではないでしょうか。

一部の情報によると、佐藤宣行は出所後、千葉県千葉市で生活をしているということです。しかし、これも定かではありません。もしそうだとしても、近所に住んでいることが近隣住民に知れ渡れば退去せざるを得ない状況に追い込まれるでしょう。すでに別の場所に移り住んでいる可能性もあります。

いずれにしろ世間の風当たりは相当強いはずです。障害者手帳を支給されていても、出所後にどこかに定住するということは考えにくいでしょう。社会的に大きく取り上げられ、残虐でショッキングな事件を起こした加害者の末路は悲惨なものです。しかし、犯罪歴のある障害者の出所後、彼らをどう扱うかという点については議論の余地もあるところです。

また、この新潟少女監禁事件は事件そのものだけではなく、警察の不祥事や杜撰な捜査体制を炙り出した側面もありました。警察の対応や捜査に不備がなければ、新潟少女監禁事件がこれほど長期化することはなかったと言っても過言ではありません。

加害者と両親との関係性やその在り方も、自分たちの生活と別世界の話ではありません。2018年現在、新潟少女監禁事件の発覚からすでに18年の歳月が流れました。新潟少女監禁事件は、家庭内の問題が社会問題となる大事件につながる可能性をはらんでいることを教えてくれました。

親子間の問題や子育ての失敗は誰でも身近にありえることです。これらとちゃんと向き合って生きるためにもこの新潟少女監禁事件を風化させてはいけません。

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