鳴海清の生涯!ベラミ事件での山口組三代目襲撃や最期とは

京都のナイトクラブで、鳴海清が当時の山口組三代目の田岡組長を銃撃した事件は、現場となったクラブの名前からベラミ事件と呼ばれています。鳴海清の生い立ちや事件を起こす背景となった大阪戦争での抗争、遺体発見時の状況、そして妻と息子や娘について紹介します。

鳴海清の生涯!ベラミ事件での山口組三代目襲撃や最期とはのイメージ

目次

  1. 1鳴海清とは
  2. 2鳴海清の生い立ち
  3. 3鳴海清が関わった大阪戦争の概要
  4. 4京都ベラミ事件とは
  5. 5鳴海清の遺体発見の真相
  6. 6鳴海清の妻や息子とは
  7. 7鳴海清は組長を撃ったと男として伝説に

鳴海清とは

鳴海清という名前を聞いて、どのような人物のことかすぐに思い当たる人は少ないのではないでしょうか。鳴海清は、二代目松田組系大日本正義団に所属していた暴力団員でした。鳴海清の概要について紹介します。

鳴海清のプロフィール

・生年月日:1952年
・現在年齢:1978年没
・出身地:大阪府
・所属:二代目松田組系大日本正義団

ベラミ事件の首謀者

1978年(昭和53年)7月11日に京都府の京阪三条駅前にある「ベラミ」というクラブで、当時の山口組三代目組長の田岡一雄が銃撃される事件が起きました。事件現場となったクラブの名前から「ベラミ事件」と呼ばれるようになったこの襲撃事件の首謀者は、鳴海清であるとされています。当時26歳でした。

暴力団絡みの暴力事件はそれまでにも、そしてそれ以降も頻発していますが、このベラミ事件はその中でも例を見ない事件だと言われています。当時山口組は1万人以上の組員がいる日本最大規模の指定暴力団であり、それを束ねる組長の田岡一雄は周囲から畏敬されていたのです。暴力団関係者だけではなく警察関係者も言葉を失うような事態でした。

鳴海清は、松田組系大日本正義団の会長であった吉田芳幸の指揮によってこのベラミ事件を実行したと言われています。

鳴海清の生い立ち

大手指定暴力団の組長を銃撃するという、世間を震撼させた前代未聞の事件を起こした鳴海清は当時26歳でした。暴力団の組員となり、このような事件を起こすようになった背景にはどのようなことが関係しているのでしょうか。鳴海清の生い立ちを紹介します。

実家は大衆食堂

鳴海清は1952年に大阪府で生まれています。実家は大衆食堂を営んでいました。はっきりとした人数は分かっていませんが兄弟が多く、姉が何人かいたようです。高度経済成長期が始まる少し前であり、朝鮮戦争による経済特需が続いていた頃です。家庭環境や経済面では大きな問題はなく、ごく普通の家庭だったと見られています。

印刷工場に就職

鳴海清は中学校を卒業後、東大阪の印刷工場に就職します。この頃はまだ高校への進学率がそれほど高くなく、中学校卒業と同時に働き始めるのは一般的なことでした。鳴海清はこの印刷工場に2年勤務した後退職したようです。

死亡事件を起こし少年院へ

鳴海清の人生に暗雲が立ち込めたのは、印刷工場を退職した後のことでした。当時17歳だった鳴海清は、喫茶店に居合わせた客と口論になり、殴り合いになった末に相手を殺してしまいます。この事件によって鳴海清は1年半ほど浪速少年院に入所していました。

出所後は大日本正義団組員に

浪速少年院から出所後、鳴海清は土木作業員などの仕事に就いていました。その後近所の女性と結婚し、「なるみ食堂」を開業します。両親も大衆食堂をやっていたので、食堂経営は身近だったのかもしれません。

そして19歳のとき、賭博場に出入りするようになった鳴海清は大日本正義団組員となります。さらにこの頃、背中に天女の刺青を1年がかりで入れたといいます。

鳴海清が関わった大阪戦争の概要

鳴海清の生い立ちについて紹介してきました。大日本正義団に入ってから京都でベラミ事件を起こすまでおよそ7年の間、鳴海清の生活が平穏だったとは言えません。ベラミ事件のはるか以前から、その事件の種が蒔かれていたのです。京都ベラミ事件の概要を紹介する前に、鳴海清が所属していた大日本正義団を渦巻く因縁や大阪戦争について説明します。

三代目山口組佐々木組VS二代目松田組の抗争

1975年、大阪市豊中市で二代目松田組系の組員が三代目山口組佐々木組の組員を3人射殺するという事件が起きました。これは佐々木組系の組員が松田組系の縄張りを荒らしたことへの報復だったようですが、事態は収拾することなく、争いは次第に大きくなっていきます。

当初は三代目山口組佐々木組と二代目松田組の下部組織同士のいざこざだったこの抗争は、下部組織の枠を超えて上位組織を巻き込んだ争いとなっていくのです。この三代目山口組佐々木組と二代目松田組の抗争は大阪戦争とも呼ばれ、1978年まで続くことになります。

鳴海清は松田組に所属していた

鳴海清が所属していた大日本正義団は、二代目松田組系の組織でした。そのため鳴海清も二代目松田組陣営としてこの大阪戦争に関わっていました。

総組員が1万人を超えるとも言われていた三代目山口組佐々木組に対し、二代目松田組の組員は500人ほどだったようです。圧倒的な人数差があるにも関わらず、鳴海清が所属していた二代目松田組は屈することなく戦い続けたのです。

日本橋事件が京都ベラミ事件のきっかけ

1975年から続いていた大阪戦争は、翌年には沈静化の兆しがあったといいます。しかしその時にまた大きな事件が起こったのです。大阪日本橋筋商店街で、二代目松田組大日本正義団の会長であった吉田芳弘が射殺されるのです。三代目山口組佐々木組員の犯行でした。

尊敬していた会長が敵対する組の手にかかるという惨事に、鳴海清は復讐を誓ったといいます。闇雲に相手を襲撃するのではなく、綿密な計画によって間違いなく相手をしとめる案を練っていました。鳴海清が標的に選んだのは、山口組佐々木組の田岡組長でした。会長を殺された恨みを、組長を殺すことで晴らそうとしたのです。

京都ベラミ事件とは

1975年から始まった大阪戦争は次第に熾烈な攻防戦となり、当時の大阪市民は大きな不安を抱えながら生活していました。そして日本橋事件から約10カ月後、会長の敵討ちを誓っていた鳴海清がついに行動を起こします。京都ベラミ事件です。ここからは京都ベラミ事件の詳細について紹介します。

山口組三代目の田岡組長の狙撃計画

鳴海清を始めとした二代目松田組の組員は、会長を殺された敵討ちとして山口組三代目組長の田岡一雄を殺害する計画を立てます。この計画には、二代目松田組系大日本正義団の会長の吉田芳幸も加わっていました。

ナイトクラブ「ベラミ」で狙撃

1976年10月の日本橋事件以来、山口組の三代目組長の田岡一雄殺害計画を練っていた大日本正義団の組員は、田岡組長の行きつけの店が京都府の京阪三条駅前にあるナイトクラブ「ベラミ」であることを突き止めます。そしてこの場で襲撃することを決めたのです。

実行犯として名乗りを上げた鳴海清は何度もベラミに通い、田岡組長が現れるのを待っていたといいます。ベラミ事件当日の1978年7月11日、鳴海清はベラミで田岡組長が来るのを待ち構えていました。銃声が鳴り響いたのは、ベラミでのダンスショーが終わった直後だったといいます。鳴海清は田岡組長へ向かって発砲しました。

もちろん田岡組長には複数のボディーガードがいましたが、鳴海清の襲撃を防ぐことはできませんでした。弾は田岡組長の首元を貫通し、さらに付近にいた一般人2人にも流れ弾が当たっていました。この時田岡組長は、自分よりも一般人の手当てを優先するように指示を出していたといいます。

狙撃失敗・鳴海清は逃走するも

狙撃後ベラミから出てきた鳴海清は、会長の吉田芳弘に「手ごたえがあった」と伝え、阪急電車で大阪に向かって逃走しました。しかし、鳴海清が撃った弾は首元を貫通していたにも関わらず、田岡組長は一命を取り止めたのです。松田組が計画していた報復は失敗に終わってしまったのです。

ベラミに残されていたグラスの指紋から、田岡組長を銃撃した犯人が鳴海清であることはすぐに判明しました。しかし鳴海清は姿をくらましており、すぐに逮捕されることはありませんでした。鳴海清はどこかに潜伏しながら、山口組に対する挑戦状のような文書を新聞社に送りつけていました。

そしてこのベラミ事件によって、山口組佐々木組による松田組への報復が激しさを増していきます。山口組佐々木組の組員は280人以上が摘発され、松田組側は組長や幹部を含め7人が殺害されています。

鳴海清の遺体発見の真相

ナイトクラブ「ベラミ」で山口組三代目の田岡組長を銃撃した鳴海清は、その後電車で逃走したと見られていました。しかしベラミ事件から3か月近くたった頃、鳴海清は遺体として発見されるのです。事件後の鳴海清の身に一体何が起こったのでしょうか。鳴海清の遺体発見の真相について紹介します。

六甲山中で腐乱死体が発見される

1978年9月17日、神戸の六甲山中の瑞宝寺谷でパジャマ姿の一部白骨化した腐乱死体が発見されました。遺体は暑さによる損傷がひどく、指先も原形を留めていなかったため指紋の採取もできない状態でした。

この当時はまだDNA鑑定によって遺体の身元を調べる技術がなかったため、遺体が鳴海清だと断定されるまで10日ほどかかっています。赤外線捜査によってうっすらと背中に浮かび上がった天女の刺青によって鳴海清だと特定されました。

遺体にはリンチを受けた痕

鳴海清だと断定された遺体の損傷の原因は、暑さや遺棄されたことによる劣化だけではありませんでした。爪をはがされ、歯も折られ腹部には刺し傷もあり、リンチを受けた痕が残っていたのです。ベラミ事件後に逃走した鳴海清が、山口組佐々木組の報復を受けたのか、それとも他の相手から暴行を受けたのかが警察の捜査の焦点となりました。

発見された遺体が鳴海清だと断定されてから程なくして、田岡組長は自宅に報道陣を呼び寄せて記者会見を開き、大阪戦争の終結を宣言しました。大阪を中心とした関西の人々に平和が戻ったのです。

忠成会が殺害を自供

鳴海清の殺害容疑で逮捕されたのは、驚くことに同じ松田組系の忠成会の組員5人でした。この忠成会は兵庫県三木市に本拠地を置き、ベラミ事件後に鳴海清を匿っていたといいます。最初のうちは同じ松田組系の組員として鳴海清を守っていたようですが、次第に山口組佐々木組の報復が激しさを増していくことに不安を覚えたようです。

鳴海清を匿い続けることに危険を感じた忠成会の組員が、ついには鳴海清を殺害することにしたというのが、警察による見解でした。

真犯人はわからぬまま

鳴海清の殺害容疑で忠成会の幹部や組員5人が逮捕されました。このうち3人が鳴海清の殺害を自供しましたが、彼らの供述には食い違っている点も多く、鳴海清殺害の真相については明らかにされないままでした。

そして事件から12年後の1990年、忠成会の組員たちは逮捕監禁罪、同幇助罪でのみ有罪判決を受け、殺人に関しては無罪判決でした。その後も鳴海清を殺害した真犯人は分からないまま、時効を迎えました。鳴海清を殺害した真犯人が誰であるのかは、闇に葬り去られてしまったのです。

鳴海清の妻や息子とは

26歳の時に京都でベラミ事件を起こした鳴海清は、その当時どのような生活をしていたのでしょうか。最後に鳴海清の家族について紹介します。

内妻の子供が2人いた

鳴海清には本妻と愛人がいました。鳴海清と本妻の間に子供はなく、愛人との間に娘と息子がいたようです。本妻も愛人の子を可愛がっていたとも言われています。そしてベラミ事件前日、鳴海清は本妻と愛人との3人で食事をし、自分が帰らなかった場合も協力して生活して欲しいと伝えていたそうです。

たった500人ほどの組員しかいない松田組に属する鳴海清が、1万人以上の組員の頂点に立つ田岡組長を襲撃する計画を立てていたのですから、生半可な気持ちではなかったのでしょう。鳴海清が抱く復讐心は、本妻や愛人、そして2人の子供たちとの将来を投げ打つほど強いものだったのです。

子供の写真が身元証明に

六甲山中で発見された遺体の腹巻の中から、子供の写真が入ったお守りが見つかっていました。この写真も、遺体の身元が鳴海清であると断定する重要な証拠となりました。鳴海清の愛人は、この写真に写る子供が自分と鳴海清の子供であることを泣きながら認めたといいます。

鳴海清は一大事件を起こし逃走している間も、子供の写真を肌身離さず持っていたのでしょう。

子供たちの所在は不明

鳴海清には娘と息子の2人の子供がいたと見られていますが、その子供たちの現在の所在は分かっていません。自分たちの父親が鳴海清であるという事実を知っているかどうかも分かりません。おそらく一般人として、暴力団には関わらず普通の生活を営んでいると見られています。

鳴海清は組長を撃ったと男として伝説に

山口組三代目の田岡組長は、わずか33人の賭博集団に過ぎなかった山口組を1万人以上の組員を擁する一大組織に拡大させ、各下部組織の行動にも目を光らせていたといいます。またビジネスのセンスを発揮して芸能事務所や海運業にも進出して大きな功績を残しており、神戸港の労働者の生活環境を整えることに尽力していました。

世間がイメージする暴力団組長とは一線を画した人物だったのです。そんな山口組三代目組長である田岡一雄を撃った鳴海清は、今や伝説の男になっています。映画の『総長の首』(中島貞夫監督)や『獅子王たちの夏』(高橋伴明監督、哀川翔主演)、『ドンを撃った男』(和泉聖治監督、的場浩司主演)など鳴海清を題材とした映画も多く制作されています。

しかし、いくら伝説の男であったとしても、鳴海清が起こしたベラミ事件はれっきとした犯罪です。尊敬していた組長の名誉のためという大義名分があったとしても許されることではありません。今後、大阪戦争やベラミ事件のような悲劇が起きないことを願うばかりでしょう。

関連する記事はこちら

Thumb許永中の生い立ちや現在!イトマン事件の真相や山口組との関係とは
イトマン事件に関わっていた許永中をご存知ですか。許永中は裏社会のフィクサー(黒幕)や闇の帝王...

関連するまとめ

人気の記事

人気のあるまとめランキング

新着一覧

最近公開されたまとめ