津山事件の真相!都井睦雄の動機や寺井ゆりこの現在【津山三十人殺し】

1938年5月21日に岡山県の貝尾集落で起きた津山事件をご紹介します。都井睦雄が起こした津山事件は津山三十人殺しとも呼ばれ、八つ墓村のモチーフになりました。犯人都井睦夫の犯行動機や遺書、被害者の一人・寺井ゆり子の現在など、津山事件の詳細に迫ります。

津山事件の真相!都井睦雄の動機や寺井ゆりこの現在【津山三十人殺し】のイメージ

目次

  1. 1津山事件とは
  2. 2津山事件の犯人・都井睦雄の人物像
  3. 3津山事件の犯行動機
  4. 4津山事件の詳しい内容は
  5. 5寺井ゆり子の現在と人物像
  6. 6津山事件をモデルにした「八つ墓村」とは
  7. 7津山事件の現在は
  8. 8津山事件は集落での孤立が原因で起きた悲しい事件だった

津山事件とは

津山事件(つやまじけん)での大量殺人事件は、小説や映画のモデルにもなるほど大きな衝撃を世間に与えた事件でした。犯行後に犯人である青年が自殺を遂げてしまった事から、謎に満ちた事件でもあると言われています。

いったいどれほどの人間がこの事件の犠牲者となったのでしょうか。また、犯行動機や事件が起きた貝尾集落(かいおしゅうらく)について、さらに現在の事件現場の様子なども含めて、事件の真相を辿っていきます。

「八つ墓村」のモデルとなった実際に起きた事件

津山事件は、横溝正史(よこみぞせいし)が書いた小説『八つ墓村』のモデルとなっています。作者が作品を考案中、「村人30人殺し」という実際に起こった津山事件の内容が脳裏にひらめいたと言われています。作品冒頭に登場する「村人32人殺し」が本件をモチーフにした部分とされています。

作者の横溝正史は、純粋な探偵雑誌よりもスケールの大きい伝奇小説を書いてみようという意志があり、津山事件は格好のモデルになると思いつきました。しかし、舞台の中心は津山事件の起こった場所には程遠い場所に設定したようです。

この小説が発売されてから、津山事件の事は、「あの八つ墓村のモデルになった津山三十人殺し」と常に『八つ墓村』というキャッチコピーで紹介されるようになりました。

そのため津山事件の現場となった場所も、『八つ墓村』に登場するような山奥の僻地にある貧しい山村を想像してしまいますが、貝尾集落は決して貧しい村でも僻地でもなく、鉄道の通った駅から歩いても近い場所にあります。しかしおどろおどろしい八つ墓村の先入観から、津山事件の現場にも同様のイメージを抱く人が多いようです。

津山三十人殺し事件とも呼ばれる

津山事件は28名が即死、5名が重軽傷を負っています。その後12時間以内にさらに2名が死亡、合計30人が殺されています。事件名の由来は、犯行現場の名前から「津山事件」または、30人殺害をした事から「津山三十人殺し事件」と呼ばれるようになりました。また犯人の名前をとって、都井睦雄(といむつお)事件とも呼ばれています。

1938年5月21日に起きた大量殺人事件

犯行は1938年5月21日に行われました。都井睦雄の犯行はすさまじい早さで行われ、合計11軒を連続して次々と襲っていきました。最初は都井睦雄の祖母、2軒目は隣の家の妻と子供3人を殺害、さらに3軒目、4軒目と相次いで11軒の家に侵入しました。そして当時家に居た住人を射殺したことで、合計30人の命を奪った大量殺人事件となりました。

7軒目で妻と子供を射殺した都井睦雄は、残された家主がじっと座っているのを見て、「お前はわしの悪口を言わんじゃったから、堪えてやるけんの」と言って見逃したと言われています。3軒目の家には直接恨みを持っていなかったようですが「恨みを持っている家から嫁をもらったので殺した」という理由を語ったそうです。

岡山県の加茂村にある貝尾・坂元集落で起きた事件

津山事件または津山三十人殺しは、1938年(昭和13年)5月21日に岡山県苫田郡西加茂村大字行重(現在の津山市加茂町行重)にある貝尾集落と坂元両集落(さかもとりょうしゅうらく)で起こった大量殺人事件です。当時の貝尾集落には全23戸111人が暮らしており、坂元両集落には全20戸94人が暮らしていました。

西賀茂村は普通のどこにでもある山奥の村で、貝尾集落は一番奥にあり、その手前に坂本両集落がありました。冬になって雪が降る頃になると、男性は長期の出稼ぎに行き、女性と子供、老人だけが村に残る風習があったようです。

30人をわずか2時間で殺した

先程説明したとおり、津山事件または津山三十人殺しの犯行は、わずか2時間の間に28人が即死、5人が重軽傷を負いました。そのあと12時間経つ頃には重傷を負ったうちの2名が死亡しました。犯行の跡、犯人も遺書を残して自殺しています。この事からも犯人は最後の自殺まで計画を立て、躊躇うことなく決行しています。

津山事件の犯人・都井睦雄の人物像

では恐ろしい惨劇を起こした犯人、都井睦雄とはどのような人物だったのでしょう。津山事件または津山三十人殺しの犯人、都井睦雄の生い立ちを辿ってみましょう。犯人である都井睦雄の生い立ちから祖母との関係を探り、都井睦雄が津山事件の犯人になり得た原因や犯行動機に繋がることはあるのかを追及していきます。

1917年に岡山県で生まれる

津山事件または津山三十人殺しの犯人、都井睦雄は1917年(大正6年)3月5日、岡山県苫田郡加茂村大字倉見(現在の津山市)に生まれました。大量殺人を犯した都井睦雄は事件を起こした21歳になるまで、どのような環境で育ち、何を考えながら暮らしていたのでしょうか。

幼少期に両親を肺結核で亡くし祖母に育てられた

津山事件の犯人である都井睦雄の父親は、肺結核を患い都井睦雄が1歳の時に亡くなっています。母親もその1年後に亡くなりました。この時も死因は肺結核でした。父親の死後、母親は都井睦雄に家督相続権を与えるため、役所に手続きをしています。

その時、都井睦雄はまだ1歳でした。母親が亡くなってからは祖母が都井睦雄の後見人となり、加茂の中心部、塔中へ引っ越しました。

6歳の頃に貝尾集落に引っ越した

1922年(大正11年)、都井睦雄が6歳になった時、祖母は睦雄と睦雄の姉を連れて、祖母の生まれ故郷である西賀茂村の貝尾集落に引っ越しています。この当時の都井家には、生活をするには十分な所得と資産がありました。1924年(大正13年)に都井睦雄は小学校へ入学します。同じ年に「賀茂村改め現在の加茂町」と改名されます。

学業は優秀だったが祖母に進学を反対される

資産家だった都井睦雄の家庭でしたが、都井睦雄と姉の学費で出費が嵩み、徐々に家計は傾いていったようです。都井睦雄は成績優秀で、高等小学校を卒業した後には進学を志していました。しかし祖母は都井睦雄を溺愛しており、自分の元から離れる事を嫌がるあまり進学を強く反対します。その後の都井睦雄は次第に家に引きこもるようになったという事です。

この頃から犯行動機に繋がるものがあったのでしょうか。祖母の溺愛ぶりは、後に都井睦雄の社会性を阻害するほどのものだったようです。小学校に上がる年齢になった都井睦雄を祖母は学校に行かせず、片時も目を離さなかったと言われています。

少学校の先生が心配になり自宅を訪ねると、祖母は学校に行かせる事を拒み「あと1年待って下さい。」と懇願したそうです。1年遅れで小学校に入学した都井睦雄でしたが、病気を理由に学校を休みがちでした。

しかし、学校を休んだ都井睦雄の元に教師が自宅を訪問すると、高熱で寝ているはずの都井睦雄は祖母と遊んでいたという事です。

また夏休みが終わる際も、祖母が学校に行かせず長期欠席になっていたそうで、3学期はほとんど登校していなかったようです。しかしながら都井睦雄の成績はとても優秀で、3年生になると学級長に選ばれています。その事を大変喜んだ祖母は、お赤飯を炊いて近所中に配って歩いたそうです。

また、都井睦雄は普通の子供が遊ぶような玩具に興味を示さず、文芸雑誌が好きで読みふけっていたようです。この頃の都井睦雄は、後に大量殺人を犯すような要素はどこにもなかったと、当時の担任は証言しています。

肋膜炎や結核を患い病弱だった

1931年(昭和6年)3月に都井睦雄は尋常小学校を卒業していますが、その直後に肋膜炎を患ってしまいます。医師からは農作業を禁止され、毎日ブラブラとした生活を送っていました。しかし病状はすぐに回復し、1933年(昭和8年)に青年学校に入学しました。

翌年、姉が結婚して高田村に転居すると、都井睦雄は学業をを嫌がるようになりました。家に引きこもり友達も作らず、同世代との関わりがなくなったようです。後に都井睦雄は結核も罹っていますが、それについては後程説明していきます。

津山事件の犯行動機

これまでにも、都井睦雄には進学を断念せざるを得なかったり、肋膜炎に罹ったりと、心に不安や不満を募らせるような出来事がありました。その後の人生は、都井睦雄にとってどのようなものだったのでしょうか。

そして2時間の間に35人を死傷させ、遺書を残して自殺するに至った犯行動機とは、いったいなんだったのでしょう。ここからは、その犯行動機をたぐり寄せていきます。

不治の病と呼ばれていた結核を発病した

1935年(昭和10年)12月31日、都井睦雄は医師に肺突カタル(肺結核の初期症状)と診断されています。当時の肺結核は、現在のように完治する病気ではありませんでした。肺結核が不治の病とされていたため、肺結核とは表現せず「肺尖カタル」とぼかして表現をしていたようです。

都井睦雄はこの翌年あたりから不眠症にもなっており、睡眠薬を服用していたようです。この頃の心の陰りも、犯行を実行しようと考えた動機の一つなのかもしれません。

それが原因で徴兵検査が不合格になった

1937年(昭和12年)、3月4日に都井睦雄は成人を迎えました。それと共に祖母の後見が終了しました。その同年、都井睦雄は土地を担保に400円(現在の価値では150万円)を借金しています。そして5月に徴兵検査を受けますが、結核を理由に丙種合格(入営不適とされて不合格になる事)となりました。

都井睦雄はこの事で混乱し、医師に対して結核を告発しています。津山事件のあった当時の日本は「国民皆兵」と呼ばれている時代であり、軍隊に入る事は名誉な事だとされていました。

「甲種合格」という肩書は、男性にとって優れた男というステータスだったようです。そのため都井睦雄は丙種合格になった事で、世間から後ろ指を指され、馬鹿にされるようになったと言われています。またこの頃から、都井睦雄は度々津山の鉄砲店を訪ねては銃の仕組みについて尋ねるようになっています。

病気と丙種合格を理由に夜這いを拒否された

丙種合格になってから都井睦雄は、関係を持った女性たちに夜這いを拒絶されるようになります。また、日中戦争の出征兵士の歓送会にも一度も出席する事はありませんでした。先程もご紹介したように、当時の結核は伝染する不治の病でした。

今でこそ治療法があり完治する病気ですが、当時は「結核イコール死」に繋がり、敬遠されるのは自然とも言える事でした。

今まで夜這いで関係を持っていた女性たちが次々と離れていき、さらに悪口を言われるようになります。都井睦雄の恋焦がれていた女性はどうだったのでしょう。都井睦雄の遺書には、この事に対する恨みが綴られていたようです。犯行動機はこのように少しずつ、都井睦雄の中に蓄積していったのかもしれません。

都井睦雄から村の人が離れていった

事件当時、貝尾周辺の村では「夜這い」という風習が残っています。この風習は、古代にさかのぼります。昔は夫婦は別居しており、夜になると夫が妻の家にやってきて一夜を過ごす「妻問い婚」という風習がありました。結婚をすると正々堂々と「妻問い婚」が行えます。しかし、結婚する前に家族に隠れて行うと「夜這い」となります。

昔の日本は、元々一夫一婦制という認識が薄く、多重婚や夜這いは当たり前とされていました。江戸時代にもこの制度は風紀が乱れるという事で、禁止令が出ましたが、明治時代になると一夫一婦制が確立され、各地で「夜這い禁止令」が出されています。

頭が良かった都井睦雄は、まわりから期待されていましたが、結核に罹ってしまった結果、忌み嫌われるようになり、事実上の村八分になってしまったのです。これは秀才ともてはやされた都井睦雄にとっては、屈辱以外の何ものでもなかったでしょう。都井睦雄の遺書にもこの事が触れられており、犯行動機の一つであったことが伺えます。

津山事件の詳しい内容は

津山事件または津山三十人殺しの犯行は凄まじいものでした。犯行時の生存者たちは、凶器の激しい銃声を聞いて逃げ隠れしたことで助かっています。犯行の夜に偶然不在だった者も2名、難を逃れました。

1937年に入ると、都井睦雄は奇怪な行動をとっていたと言われています。その際住民は危機感を感じることはできなかったのでしょうか。またその犯行内容はどのような惨劇だったのでしょう。都井睦雄が残した遺書についても辿ってみます。

事件前から銃や刀を収集していた

都井睦雄は同年7月25日に、鉄砲店で凶器のベルギー製12番口径プローニング5連発銃を55円(現在の価値で22万円)で購入しています。10月27日に津山警察で狩猟免許を取得し、凶器となる火薬の購入もしました。

武器を入手したその後は毎日山にこもり、射撃練習を始めたと言われています。夜になると猟銃を手に村を徘徊し、近隣の人間に恐怖を与えていたそうです。

1938年(昭和13年)にも西賀茂村の金貸し屋で600円(現在の価値で238万円)の借金をし、財産をほぼ使い果たしています。それらの借金は全て、犯行時に使用する凶器を買うためだったと考えられています。同年2月28日には神戸の鉄砲店で凶器の5連発プローニング銃を購入し、7月には近隣の知人に、家にある鉄砲を売ってくれと話もしていました。

3日前に遺言書をかいた

津山事件または津山三十人殺しの犯人である都井睦雄は事件を起こす3日前に、自分の姉をはじめとする数名に宛てて長文の遺書を書いています。そして自転車で隣町の加茂町の駐在所まで走り、命をとりとめた住民が救助を求めるのに必要な時間を把握するなど、犯行の周到な計画を立てていた事が後にわかりました。

姉に書いた遺書の一部には姉を思いやる言葉も書かれており、「姉さん、早く病気を治して下さい。この世で強く生きて下さい」と書かれていたそうです。他にも何通かの遺書が書き残されていますが、誰にどんな内容の遺書を残したかまでは定かではありません。

送電線・電話線を遮断し祖母から殺害する

1938年(昭和13年)5月20日、津山事件または津山三十人殺しの犯人・都井睦雄は役場近くまで自転車で行き、夕方になると電柱によじ登って貝尾へ配電されている電線を切断しています。貝尾集落の人たちは特段不審には思わず、電気の管理会社へ通報する事もなかったと言われています。

5月21日午前1時30分頃、遺書を書き残した都井睦雄の犯行は始まりました。最初に犠牲者となったのが都井睦雄の祖母でした。祖母を殺害した事に対して、都井睦雄は遺書に後悔の念を書いています。

日本刀と猟銃が凶器

津山三十人殺しはこうして始まりました。1時40分頃、詰襟の学生服を着て、軍用のゲートル(スネの部分に巻く布・革でできた被服)と地下足袋を履き、はちまきを締めて、小型の懐中電灯をはちまきの両側に一本ずつ結わえ付けた姿になりました。

首からは、自転車用のランプをぶら提げて、腰には凶器である日本刀一振りとあいくち二振りを差し、手には凶器の改造した9連発プローニング銃を持つという、鬼のような出で立ちでした。寝ている祖母の前で両手を合わせ、凶器の斧で首を刎ねました。祖母の首は50cmほど転がって、都井睦雄は返り血を浴びたと言われています。

1軒目を襲撃した犯行動機は、夜這いで関係を持ちながら村中に噂をまき散らした母親に対する恨みでした。最初から凶器の銃を使うと騒ぎになるため、凶器の日本刀で母親と二人の子供を殺害しました。

2軒目の家では、その家の嫁や娘と夜這いの関係を持っていました。この家では夫婦と娘2人の4人暮らしをしていましたが、4人とも凶器のプローニング銃で殺されています。

3軒目は少し離れた場所の家で、夫婦と祖母、甥の4人暮らしをしていました。妻は妊娠4か月だったそうですが、射殺されています。ここでは凶器のプローニング銃で3人を殺害しており、かろうじて祖母だけは一命を取り留める事ができました。

4軒目は、犯行動機とされる寺井ゆり子の実家でした。6人家族で、他にも寺井の家に逃げてきた者もいました。凶器のプローニング銃で犯行に及びましたが、逃げ延びて助かったものもいました。次に高台の家が狙われました。母親と息子の2人暮らしで、都井睦雄は、母親と関係があったという事です。凶器のプローニング銃で母親と息子を殺害しました。

6軒目は、家族が6人とお手伝いが2人の計8人が住んでいました。都井睦雄は、お手伝いの2人と関係があったと言われています。祖母と子供2人が生き残り、他6名は凶器のプローニング銃で撃ち殺されました。その後、7軒目で夫婦と手伝いの2人の女性を射殺し、8軒目で女性2人、9軒目で4人、10軒目・11軒目で合わせて3人を殺害しています。

ターゲットは夜這い関係にあった人と家族

津山三十人殺しの犯人である都井睦雄は、夜這いで関係を持った女性とその家族をターゲットにしていました。肺結核と丙種合格により、今まで夜這いしていた女性が馬鹿にしたり悪口を言うようになった事に、強い恨みを抱いていたようです。これが津山三十人殺しの犯行動機ではないかと言われています。

先にも説明しましたが、3軒目に襲った家族には恨みがなかったものの、「恨みを持っている家から嫁をもらったので殺した」というのが殺人の理由であった事も確かです。また悪口を言わなかった者の一部には危害を加えていない事から、やみくもに殺したわけではなく、関係のあった女性やその家族のみが殺人の対象だったのではと言われています。

35人を殺傷後21歳の都井睦雄が自殺し幕を閉じた

津山三十人殺しの犯人、都井睦雄の2時間に及ぶ35人の襲撃・殺害事件後、都井睦雄は隣の集落の一軒に訪れて、遺書を書くために紙と鉛筆を借りました。その家の子供が都井睦雄とは顔見知りであった事から、都井睦雄の姿を見て驚愕して動けないでいる家族に代わり、遺書を書くための紙と鉛筆を貸したと言われています。

都井睦雄はその帰り際、鉛筆を渡した子供に対し「うんと勉強して偉くなれよ」と声をかけています。その後犯人は、3.5km離れた仙の城と呼ばれる荒坂峠の山頂でまた遺書を書き、猟銃で自殺をはかりました。心臓を凶器の猟銃で撃ち抜いており、即死だったと言われています。

寺井ゆり子の現在と人物像

貝尾集落では美人だと言われた寺井ゆり子ですが、津山事件の犯人・都井睦雄とはどのような関係にあり、事件後はどうなったのでしょうか。現在生きているとすれば、もう100歳近い年になっているでしょう。関係が深かったとされる寺井ゆり子についても詳しくご紹介します。

村の中でも美人で都井睦雄と夜這い関係にあった?

津山事件または津山三十人殺しの犯人、都井睦雄が犯行を決意したのは、以前関係を持ち既に他の家に嫁いでいたという寺井ゆり子が、貝尾集落に里帰りしていたからだと言われています。

貝尾集落では美人と評判だった寺井ゆり子は都井睦雄とは夜這いの関係があったとされる一人ですが、これは都井睦雄の一方的な妄想であるとも言われており、真実は定かではありません。

都井睦雄が最も好意を寄せていた女性

遺書を残し30人もの殺人をした津山三十人殺しの犯人・都井睦雄がもっとも好意を寄せていたとされるのが、寺井ゆり子と言われています。都井睦雄は犯行時、寺井ゆり子の家で「お前を残していけない」と言いながら、凶器の猟銃を連射しています。この事から寺井ゆり子の存在が犯行動機であったという噂も流れました。

また寺井ゆり子の最初の夫は結核持ちで、戦争に出征して間もなく兵舎で亡くなったと言われています。寺井ゆり子は「兵役中に夫が肺結核に感染して死亡した」と役所に申請し、多額の遺族年金を受けた取っていました。

そのことから、貝尾集落の人達は「都井睦雄を騙し、夫の死因を偽ってお金をもらうなんて事をして、よくバチがあたらないものだ」と語っていたそうです。

寺井ゆり子は上でも説明したとおり、1939年1月9日に同じ集落の男性と結婚しています。しかし戦地で肺結核に罹り夫が死亡した事を理由に、同年の3月20日に離婚しました。そして同じ年の5月には物見集落の男性と再婚していたようです。

そんな寺井ゆり子の相次ぐ結婚・離婚に対し、都井睦雄は何を思ったのでしょう。寺井ゆり子は弟の結婚式のために友人と実家に里帰りし、その3日後、事件が起こりました。

津山事件で寺井ゆり子は生き残った

出典: https://pixabay.com/photo-1958723/

遺書を残して殺人に及んだ津山三十人殺しでは、寺井ゆり子は都井睦雄が踏み込んできた時に逃げ出して助かっています。代わりに寺井ゆり子の家に逃げ込んできた人が誤って殺されています。都井睦雄の遺書には、寺井ゆり子を殺せなかったのは無念だとも記されていました。

事件後、村では「都井睦雄はわざと寺井ゆり子を逃がした」などと噂され始め、事件が起こった原因の張本人であるとされ、寺井ゆり子は貝尾集落では村八分同然にされてしまいました。

寺井ゆり子は半年後に娘を出産していますが、その子供は都井睦雄の子供だと囁かれていたようです。そんな犯行動機とされる寺井ゆり子のその後の人生はどうなったのでしょうか。

2010年には生存が確認され現在は不明

犯行動機とされる寺井ゆり子は、事件後に貝尾集落を出て他の集落に転居しています。津山三十人殺しの犯人・都井睦雄と寺井ゆり子は婚約していたようですが、肺結核になった都井睦雄との結婚を反対され、破局しています。

また2010年時点では寺井ゆり子の生存は確認されていますが、現在も生きているかどうかは分かりません。周囲からの誹謗中傷に合いながら、犯行当時から現在まで何十年も生き続ける事は想像を絶する苦しみだったのではないでしょうか。

津山事件をモデルにした「八つ墓村」とは

『八つ墓村』は小説や映画やテレビでも制作されています。この『八つ墓村』のモデルになったのが、津山事件でした。『八つ墓村』の作者が津山事件をモデルにした理由や、『八つ墓村』のあらすじなどを説明していきます。

1971年に発行された推理小説

津山事件または津山三十人殺しを有名にしたのは、1951年(昭和26年)に横溝正史が執筆した『名探偵・金田一耕介シリーズ』でおなじみの長編推理小説『八つ墓村』です。

1971年に発行された小説『八つ墓村』の登場人物のモデルとなったのが「津山事件または津山三十人殺し」の事件になります。その後、津山三十人殺しといえば八つ墓村というイメージが強く世間に知れ渡りました。
 

小説が人気を集め映画・ドラマになった

小説『八つ墓村』は映画が3本、テレビドラマが6作品、漫画も5作品、舞台でも1作品作られています。1977年(昭和52年)に制作された野村芳太郎監督作品、渥美清が金田一耕介役を演じた映画が公開された時には、劇中で「濃茶の尼」という老婆が叫んだ「崇りじゃー!」というセリフが話題になり、流行語にもなっています。

『八つ墓村』の映画のシーンで「32人殺し」のエピソードがありますが、まさに岡山県北部の寒村で発生した津山事件の大量虐殺事件の様子が詳細に取り入れています。出で立ちも当時の犯人がしたとされる、鬼の角のような懐中電灯をはちまきの両側に差しているという姿でした。このシーンは八つ墓村のメインシーンとなっています。

八墓村のあらすじ

舞台は戦国時代の山中の寒村で、8人の落ち武者が財宝と共に逃げてきたことから物語は始まります。村人たちは落ち武者の捜索が厳しくなるにつれ、自分たちが危険になる事や財宝や褒美に目がくらみ、落ち武者たちを皆殺しにして財宝を手にします。

落ち武者の大将は死に際に「七代までこの村を祟ってみせる」と恨みの言葉を残して死んでいきました。それを恐れた村人たちは、動物の死骸同然に埋めていた落ち武者の死体を手厚く葬り、「八つ墓明神」として村の守り神としました。それからその村は「八つ墓村」と呼ばれるようになりました。

大正時代、落ち武者を皆殺しにした時の首謀者の子孫である田治見家の当主・要蔵は、粗暴な残虐性を持った男でした。妻子がありながら井川鶴子を強姦し、自宅の土蔵に閉じ込めて自分の欲を満たしていました。

鶴子はその後男児(辰弥)を出産しましたが、鶴子には前から好きな亀井陽一という男性がいて、要蔵の目を盗んで逢引きをしていました。

そんな事から辰弥は要蔵の子供ではなく亀井の子だという噂を耳にした要蔵は、鶴子と辰也を虐待しました。身の危険を感じた鶴子は、辰弥を連れて親戚の家に身を寄せます。それに激怒した要蔵は、異様な出で立ちで日本刀と猟銃を手に取り、村人32人を惨殺して山に消える、という物語です。

津山事件の現在は

津山事件の現場となった貝尾集落は、現在どのような状態になっているのでしょうか。そして犯人である都井睦雄の犯行動機の真実はなんでしょうか。かつての村人達やマスコミ、司法省の証言や見解なども追っていきます。

集落があった土地に家が残り30人程が住み続けている

津山事件のあった貝尾集落には、当時23世帯111人が住んでいたと冒頭で説明しました。国税調査によると、2010年にその土地に住む住人は13世帯37人となっており、そのうちの4世帯は単身世帯だったそうで、過疎化が進んでいました。被害者の出なかった世帯は事件後に貝尾集落を離れてしまったと言われています。

また貝尾集落は、周辺の集落の中でも一番山際になります。2015年に倉見にあった都井の生家(廃屋となっていた)は、現在既に取り壊されています。そして2018年現在、貝尾集落に居住しているものは一人もいなくなっているとの事です。

様々な証言が混在している

津山事件から70年経った2008年(平成20年)に週刊誌で報じられた事件関係者の証言記事では、当時村に残っていたとされる夜這いの風習について否定した証言がありました。この証言は、司法省刑事局による「津山事件報告書」とは食い違う部分があります。

また2008年に放送されたテレビ番組で、「八つ墓村70年目の真実」として特集が組まれました。その時に取材を受けた村民は「夜這いの風習はあった」と証言しており、犯人も複数の女性と性的関係を持っていたと証言しています。このようにさまざまな証言が混在しているようです。

一番の犯行動機は失恋だとの見解も

津山事件の犯人は当時犯行動機とされる寺井ゆり子と婚約していましたが、先にご紹介した通り結核によって寺井ゆり子の両親に結婚を反対されています。犯人はそのような失恋が犯行動機となって、事件に及んだという見解もあります。それほど当時の人にとっての結核とは、人々にとって受け入れがたい病気だったのだろうと言われています。

津山事件は集落での孤立が原因で起きた悲しい事件だった

八つ墓村のモチーフとなった津山事件は、遺書を残して自殺した犯人の都井睦雄の恨みによる犯行だと言われています。この事件は、日本の犯罪史上類を見ない大事件として当時騒がれました。

しかし同時に、犯人である都井睦雄の秘められた無念さや悲しさが伝わってくるのではないでしょうか。村社会独特の封鎖された狭い世界と考え方から起こったこの事件は、今後も語り継がれていく事となるでしょう。

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Mrsjunko

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