京塚昌子の死因や晩年は?若い頃や「肝っ玉母さん」など出演ドラマも調査

昭和のホームドラマといえば母親役の存在は大きなもので、京塚昌子は日本を代表するお母さん女優といわれました。若いころの京塚昌子は様々な噂もありました。死因や晩年の様子や『肝っ玉かあさん』や映画に出演していた京塚昌子を画像と共に紹介します。

京塚昌子の死因や晩年は?若い頃や「肝っ玉母さん」など出演ドラマも調査のイメージ

目次

  1. 1京塚昌子のプロフィール
  2. 2京塚昌子の死因や病歴について
  3. 3若い頃の京塚昌子はどんな女優だった?
  4. 4京塚昌子を代表する出演作品
  5. 5京塚昌子は昭和の日本の母親像そのものだった!

京塚昌子のプロフィール

・愛称・・・ママ
・本名・・・平塚マサ子
・生年月日・・・昭和5年(1930年)3月16日
・没年月日・・・平成6年(1994年)9月23日(64歳没)
・出身地・・・東京都文京区根津
・体重・・・85kgから60kg弱
・活動内容・・・女優、実業家
・家族構成・・・独身

京塚昌子は東京都根津の精肉店の娘として、昭和5年3月16日に生まれました。根津といえば国の重要文化財にもなっている根津神社が有名です。谷中や千駄木などと隣接する、いわゆる下町です。チャキチャキの下町っ子であった京塚昌子は、若い頃から芸事が好きでした。

佐野高等女学校卒業

京塚昌子は、中学3年生のころ疎開先の栃木県で佐野高等女学校に通います。高校進学は疎開先の栃木県の学校に進学したそうです。佐野高等女学校は2011年に男女共学となり、現在は栃木県立佐野東高等学校となりました。卒業アルバムの画像が見つかればよかったのですが、京塚昌子の卒業アルバムの画像は見つけられませんでした。

新派へ入団

高校を卒業した16歳の京塚昌子は、劇団新派に研究生として入団します。この劇団は、明治21年(1888年)から現在まで続く、日本の演劇一派です。「京塚昌子」という芸名は、この劇団における師匠の花柳章太郎から名づけられました。当時の京塚昌子は細身のすらっとした女性でした。

残念ながら、その当時の画像は見つけられませんでしたが、入団当初から女優としての才能が見え隠れしていて、大成するオーラがあったと劇団仲間の証言がありました。この劇団で俳優の伊志井寛との相手役を務めブレイクします。

昭和34年(1959年)から昭和47年(1972年)まで放送された東芝日曜劇場シリーズ『カミさんと私』に出演しました。伊志井寛の義理の娘(再婚相手の連れ子)が、プロデューサーの石井ふく子です。のちに京塚昌子を名女優にした、ヒットホームドラマの仕掛け人です。

芸術祭奨励賞を受賞

10代で劇団新派の幹部となるくらいの勢いがありました。着々とキャリアを重ねていきましたが、22歳のとき、盲腸の手術を受けてから太りやすい体質に変わってしまいました。それまではほっそりとしていたようですが、残念ながらそのほっそりとしたころの画像が見つかりませんでした。昭和30年(1955年)、25歳にして『月夜鴉』で初めて主演を演じました。

同年、文化庁の主催で毎年秋に行われる芸術の祭典、「芸術祭」で『離れ猪』『太夫さん』の演技で第10回芸時術歳奨励賞を受賞しています。

当時は自動車会社の重役というパトロンがいました。彼の援助で築地に料亭「京弥」を開いています。パトロン解消の後に閉店し、同じ店名のてんぷら屋を銀座に開きます。さらに昭和38年(1963年)に、これまで所属していた劇団新派を退団しています。

東宝演劇部に入部

劇団新派での活躍は目覚しかったものの、演劇界ではまだまだ若手女優でした。回ってくる役は脇役ばかりでした。いまでこそ、脇役にも注目される女優となりましたが、当時は脇役は目立ってはいけないもので、看板女優の水谷八重子たちの脇役ばかりでした。また、太ってしまった体型から、若いにもかかわらず母親役ばかりでした。

せっかく開いたお店の利益もストレスからお酒を飲んでしまい消えてしまったという話もありました。劇団新派を退団した昭和38年(1963年)に、京塚昌子は東宝演劇部に入団します。このころは主に舞台を中心として活躍していました。江利チエミ主演の『マイ・フェア・レディ』では、高島忠夫の母親役で出演しています。このとき京塚昌子は33歳でした。

身長や体重などからくるその風貌から「肝っ玉かあさん」のイメージが、早くも定着していました。これもまた、残念ながら画像が入手できませんでした。

テレビや映画に多数出演

それまでは映画や舞台を中心として活躍していた京塚昌子でしたが、テレビドラマを中心とした活動に切り替えていきます。そして京塚昌子をスターダムにのし上げたテレビドラマに出演します。昭和43年(1968年)、TBS系のホームドラマ『肝っ玉かあさん』が大ブレイクしました。その後、恰幅がよくて割烹着がよく似合う母親役として人気になりました。

日本の四大お母さん女優といえば、京塚昌子をはじめ、森光子、山岡久乃、加藤治子の4人が有名ですが、その中でも割烹着が似合うお母さん女優といえば、京塚昌子との声が多く集まりました。

『肝っ玉かあさん』に続く『ありがとう』や『ほんとうに』などのテレビドラマでも、安定したお母さん役を好演しています。また、『日本一のゴマスリ男』などの映画にも出演しています。

京塚昌子の死因や病歴について

京塚昌子は64歳という若さで亡くなりました。その体型から考えると、様々な病を患っていても不思議ではありません。自覚症状がでてしまったことで、自ら芸能界引退を宣言しています。それでも病と闘い、完治を目指し、芸能界に復帰を目指していました。

その証拠に、より環境のよい病院にと、晩年までにいくつかの病院を転院しています。京塚昌子の死因や病歴、晩年までの様子などについて調べてみました。

死因は心不全

心不全というのは、医者としては「よく分からない死因」のときに使う言葉です。何らかの原因で、心臓が働かなくなったというときにも使うのです。平成6年(1994年)9月23日午後7時過ぎ、東京田町の病院で妹に見守られながら静かに息を引き取りました。直接の死因は心不全となっています。

長らく脳梗塞で入院生活を送られていましたから、様々な病気の合併症と考えるのが妥当です。看取った妹によると、眠るような安らかな死に顔だったとのことでした。

若くして更年期障害に!

京塚昌子の病歴は、22歳の盲腸手術後の肥満体型への体質変化から始まりました。劇団新派の団員時代、特に新派の世界ではいわゆる「柳腰の美人」が好まれる時代でした。その世界に合格して入団した京塚昌子ですから、盲腸手術前の彼女もスラリとした美人だったはずです。

盲腸手術後から太り始め、恩師の花柳章太郎から「64kgを超えたら女優は辞めろ」とまでいわれましたが、あっさり超えてしまいました。続いて27歳のときに、ダイエットサプリとして服用した「アメリカ製の痩せ薬」が身体に合わず、生理がとまってしまいました。このことが原因で、晩年までずっと更年期障害が続いていました。

過去には糖尿病の診断も

京塚昌子に来る役は母親役ばかりでした。もっと他の役もやりたかったとこぼしています。そんな思いからか、京塚昌子の酒豪ぶりは拍車をかけます。

京塚昌子はもともと食べることが好きでした。前述の通り、副業として小料理屋も経営し、てんぷら屋も経営していたほどです。料亭女将仲間と遊びに行ったり、俳優仲間を連れて飲み歩いたりしている姿が当時よく目撃されています。

昭和50年(1975年)ごろ、糖尿病からくる脳血栓で、京塚昌子は倒れます。しかし軽度だったこともあり、すぐにまた呑み歩く生活を続けます。実は昭和46年(1971年)ごろにはすでに、糖尿病と診断されていました。

晩年は脳梗塞で入院生活

手にブツブツがでるほど、糖尿病は悪化の一途をたどっていました。池内淳子に「ちょっと太りすぎているから、減量しなきゃだめね」と話していました。昭和58年(1983年)、巡業先の愛媛県松山市の宿で、朝起きると手足が動かず、口も回らないとのことで、そのまま20日間の入院をしました。その後、東京の病院に転送され3ケ月の入院生活を送りました。

昭和59年(1984年)から昭和60年(1985年)にかけて、京塚昌子は後の死因の1つとなる糖尿病の後遺症に耐えながら、一時的に芸能界に復帰しています。それでもやはり体調はおもわしくなく、本人の言葉で「体調が不本意なため、納得のできる仕事ができない」と休業宣言をされます。昭和61年(1986年)4月のことでした。

その後、山梨県甲府市の病院に入院してから、環境の良い静岡県の病院や長野県の病院などに入院していました。

死後に内縁の夫の存在が発覚

生涯独身を通した京塚昌子ではありますが、若いころには自動車会社の部長のパトロンがいました。当時、このパトロンとは別に、2枚目映画スターとの恋もあったようですが、あえなく破局しています。

その直後あたりから、当時経営していた料亭の女将とその仲間を連れ添って、新橋の烏森駅近くの「ゲイバー」に通うようになります。当時の日本にはゲイバーはまだ数件しかなく、珍しい存在でした。そこで出会ったゲイボーイと恋に落ち、それまで援助してきたパトロンとはきちんと別れ、ゲイボーイと同棲をはじめました。

このことを、京塚昌子の死後に「内縁の夫がいた」と芸能マスコミが報じています。同棲を始めて3年ほど後に子宮筋腫にかかり、子宮全摘出となります。これをきっかけに、同棲を解消します。

若い頃の京塚昌子はどんな女優だった?

京塚昌子は母親役がはまり役でした。CMにしても、ドラマにしても、割烹着姿の京塚昌子が一番強い印象を与えます。ブレイク以前の、若い頃の京塚昌子はどんな女優だったのでしょうか。画像など含め、なかなか情報が少ない女優ですが、調べてみました。

身長が高かった

京塚昌子の身長に関してのはっきりしたデータは残っていません。京塚昌子と共演されている沢田雅美の身長がプロフィール上に153cmとあり、いっしょに写っている写真をみると少しだけ身長が高く見えます。

昭和25年(1950年)の15歳女子の日本人平均身長が148.5cmですから、それと比較すると長身だったようです。身長は153cmから155cmあたりではないかと考えられていたそうです。

ふくよかな体型だった当時の体重は? 

ほっそりしていた若い頃の体重データは見つけられませんでした。昭和25年(1950年)の15歳女子の日本人平均体重が44.2kgで、20歳では50.7kgです。盲腸の手術を受ける前は、細身の女性との情報があるので、45kgから50kgの間であったはずです。

手術後、64kgは軽く突破との情報がありました。さらに体重はどんどん増え、体型がどんどん変わっていきました。また、糖尿病で倒れた頃の体重は85kg前後でした。晩年、入院生活が続くころの体重は60kgを切るとの情報がありました。

名母親役として活躍

『肝っ玉かあさん』がヒットしたことにより、京塚昌子は「割烹着の似合うお母さん」役がはまり役となり、その後ホームドラマにおける重要な役どころを演じ続けます。また割烹着姿から連想される「家を守る母親」として、家庭用品のCMなどにも多数出演されています。

若い頃の画像は?

少女時代の京塚昌子や劇団新派時代の京塚昌子の画像を探しましたが、なかなか見つかりませんでした。上記の画像は劇団新派時代のもので、京塚昌子のトレードマークともなっている髪形とはまったく違うショートヘアでした。

京塚昌子を代表する出演作品

京塚昌子は若い頃から芸に秀でて、才能も開花していきました。劇団新派時代は舞台女優として、東宝演劇部の映画を中心に活動し、『カミさんと私』以降はテレビを中心に活躍していきます。京塚昌子の代表作を振り返ってみましょう。

ドラマ「肝っ玉かあさん」

まずは京塚昌子を有名女優にした作品である『肝っ玉かあさん』です。『肝っ玉かあさん』は昭和43年(1968年)から昭和47年(1972年)まで、TBS系で放送されました。全3シリーズにわたって放送された番組です。

ホームドラマ製作の名プロデューサーである石井ふく子が京塚昌子を主役に抜擢しました。その太った体型を生かして、『肝っ玉かあさん』は大好評をえました。『肝っ玉かあさん』は平均30%を超える視聴率を誇り、のちの人気ホームドラマのさきがけになりました。

ドラマ「ありがとう」

昭和49年(1974年)から昭和50年(1975年)まで、やはりTBS系で放送されました。第4シリーズのカレー屋編で主演します。第1から第3までは、水前寺清子が主演でしたが、歌手活動に専念したいと降板されて、京塚昌子が主演となりました。

脚本は、『肝っ玉かあさん』から続く平岩弓枝が書いています。平岩弓枝と石井ふく子はゴールデンコンビといわれました。

映画「日本一の色男」

昭和38年(1963年)に公開された東宝映画『日本一の色男』で主演は植木等です。京塚昌子は、ハナ肇のお相手役として出演されています。出演している女優はそうそうたるメンツです。ブレイク前の脇役出演が中心だった京塚昌子は予告編ではクレジットでしか書かれていません。

映画「空想天国」

昭和51年(1968年)に公開された東宝映画『空想天国』で主演は谷啓です。酒井和歌子との痛快コメディー作品となっています。京塚昌子は、谷啓の母親役で出演しています。

CM「永谷園」

京塚昌子は舞台女優から出発し、映画出演、そしてテレビドラマで活躍されてきました。そして数々のCMにも出演されています。京塚昌子といえば、この『永谷園』のCMが最大のヒットといえます。

京塚昌子は昭和の日本の母親像そのものだった!

京塚昌子は若い頃から女優としての道を歩み続けました。晩年は病気と闘っていましたが、実際は江戸っ子らしい「楽天家」で、糖尿病のリハビリはサボりがちでした。その反面、まじめな気質で例えば食事制限はきちんと守っていました。

女優・京塚昌子は、代表作品『肝っ玉かあさん』などで少しおっちょこちょいだけど、しっかりものという割烹着を着たお母さん役を上手に演じていました。どこにでもいそうな母親役を、子供がいない当時38歳の京塚昌子が好演しました。永谷園のCMなどでみせる、にっこりと体を傾けながら笑う京塚昌子をみると、昭和の日本の母親像そのものでした。

京塚昌子の葬儀には、京塚昌子の子供役だった長山藍子ら400人以上が集まり、葬儀委員長は石井ふく子が務めました。「ママは年下なのに、本当に私のお母さんのような存在だった」と故人の人柄を偲びました。

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