アンドレイ・チカチーロとは!虐殺事件の概要や息子は【ロシアの殺人鬼】

アンドレイ・チカチーロとは、ロシアで起こった52人の連続殺人を犯したロシアの殺人鬼です。映画や本などの作品にもなっている殺人鬼アンドレイ・チカチーロの生い立ちから殺人に至った動機、判決や家族構成、息子のその後などを詳しく説明していきます。

アンドレイ・チカチーロとは!虐殺事件の概要や息子は【ロシアの殺人鬼】のイメージ

目次

  1. 1アンドレイ・チカチーロとは
  2. 2当時のソビエト連邦の状況
  3. 3アンドレイ・チカチーロの生い立ち
  4. 4アンドレイ・チカチーロに訪れた結婚
  5. 552件の猟奇的な犯行の内容とは
  6. 6逮捕後のアンドレイ・チカチーロ
  7. 7アンドレイ・チカチーロを題材にした数々の作品
  8. 8アンドレイ・チカチーロは世界史上に残る殺人鬼だった

アンドレイ・チカチーロとは

ソ連最後の指導者であるミハイル・ゴルバチョフ時代に世界を恐怖に陥れた、アンドレイ・チカチーロによる犯罪史上稀にみる大量虐殺事件についてみていきましょう。映画も制作されている殺人鬼アンドレイ・チカチーロの生い立ちや連続殺人の概要に判決内容など、事件に追ります。

ウクライナ生まれの連続殺人鬼

アンドレイ・チカチーロは1936年10月16日にウクライナ・スムスカヤ州ヤブロチュノア村で生まれました。殺人鬼アンドレイ・チカチーロは「ロシアの死神」「ロシアの食屍鬼」「ウクライナ生まれの連続殺人者」「ロストフの殺し屋」「赤い切り裂き魔」などの呼び名で知られる連続殺人犯です。

女子供を中心に男女問わず大量虐殺

殺人鬼アンドレイ・チカチーロの犯行は、ソ連全土に及びました。1978年から1990年にかけて、現在のロシアやソビエト国内の広範囲にわたって52人を殺害したとして殺人罪を言い渡されています。犠牲者は女子供が中心でしたが、男女を問わなかったのが特徴です。

この事件の捜査にあたった民警(ソ連内務省管轄の文民警察組織)では、これが同一犯人の犯行であるという事は考えられなかったという理由で捜査の方向性を絞らず、犠牲者を増やすこととなってしまいました。

殺害は現ロシア全土で行われた

アンドレイ・チカチーロの殺人は、1978年にロストフ・ナ・ドヌー(現ロシアのロストフ州の州都)から始まり、ノヴォチェルカッスク(ロストフ州の南部の産業都市)、ザポリージャ(南ウクライナ地方)、レニングラード(ロシア西部の都市)、モスクワなど、現ロシア全土で犯行を重ねていました。

当時のソビエト連邦の状況

殺人鬼アンドレイ・チカチーロの連続殺人が起こった頃のソ連は、ゴルバチョフ政権でした。様々な改革に取り組むも、ソ連を終結させて崩壊へと導いてしまいました。このような波乱な時代に起こったアンドレイ・チカチーロの殺害事件の捜査は一向に進まず、アンドレイ・チカチーロの逮捕には長い年月を要することとなります。

「殺人」という犯罪は存在しないと言われていた

この頃のソビエト連邦では、連続殺人は資本主義の弊害によるものであり、このような殺人は存在しないという公式の見解が発表されています。そのため、アンドレイ・チカチーロの犯罪は民警内部では連続殺人という認識がなく、組織的に捜査を行われることはありませんでした。

民警の本部長は捜査の指揮を執るために殺人事件が多発している地域へ出向き、シャフトゥイ(アンドレイ・チカチーロが転任する職業訓練学校周辺地域)での捜査に集中しました。対象は主に精神疾患を患っている若者たちで、過酷な尋問に絶え切れず拘留中の独房内で自殺した人もいたという事です。

警察は集団犯行だと勘違いしていた

殺人鬼アンドレイ・チカチーロの連続殺人を、当時の民警では集団犯行だと受け止めていました。性犯罪学に詳しい中佐を指揮官に任命し性犯罪者たちを集めていましたが、あちこちでダラダラと仕事をしている者は捜査から外していました。

1984年に他の場所で15人の殺人が起こった時は多くの公的交通手段を閉鎖して、地味な服を着た男性を対象にした情報を公示しています。当時アンドレイ・チカチーロがロストフのバス停で少年や少女に声をかけている所を私服刑事が発見します。その後2週間監視され、民警分署に同行を求められています。

この時アンドレイ・チカチーロの鞄から、料理包丁やロープなどが出てきたため緊急逮捕されています。

しかし、当時のソ連の法律では24時間以上拘束できなかったため、民警はアンドレイ・チカチーロの勤務先でリノリウムが紛失した容疑も加え、再逮捕となり拘束時間を延長します。アンドレイ・チカチーロの犯罪を証明するものは出てこなかったため、逮捕には至らず証拠不十分となったようです。

当時の官僚体制の希薄さが問題とも

なかなか解決に至らない連続殺人の捜査に、警察ではソ連の精神医学博士であるアレクサンドル・ブハノフスキー博士にプロファイリングを依頼しました。博士のプロファイリングは、極めて正確に連続殺害犯の特徴を捉えていたということです。

当時の書記長であるゴルバチョフ政権下の改革路線の推進という中でも、長年に渡って蔓延しているソ連社会の官僚のことなかれ主義の壁に阻まれ犯人逮捕には至らず、多数の犠牲者が増える事となりました。

アンドレイ・チカチーロの生い立ち

不遇な生い立ちのアンドレイ・チカチーロの生まれつきの病気は、彼の人生を大きく左右するものとなりました。自分の体に対してのコンプレックスは、アンドレイ・チカチーロの心を深い闇へと落としていく事になります。殺害事件を起こす前のアンドレイ・チカチーロの生い立ちや家族、自分の体に対する羞恥心からきた精神の異常などを辿っていきます。

アンドレイ・チカチーロの家族や生い立ち

アンドレイ・チカチーロの生い立ちですが、1936年10月16日にウクライナ・スムスカヤ州ヤブロチュノア村で生まれました。家族は両親と妹、息子のチカチーロの4人家族です。母親はアンドレイ・チカチーロの上にも息子(兄)がいて、その兄は餓えた隣人に食べられてしまったと語っていますが、実際にいたのかは不明です。

父は第二次世界大戦で戦争に駆り出されています。母親は息子のチカチーロと一緒に寝ていましたが、チカチーロは夜尿症でした。夜尿症の症状が出るたびに母親はチカチーロに暴力をふるっていたようで、チカチーロは屈辱的な生い立ちを送っていたという事です。息子が病気だとわかっていれば対処の仕方が変わっていたのでしょうか。

性的コンプレックスがあった

アンドレイ・チカチーロはある程度大きくなってきた時、自分がインポテンツである事に気付きます。とても屈辱的な苦悩を味わっている思春期のアンドレイ・チカチーロの生い立ちですが、この問題により更に性格のゆがみが出てきます。

そんな生い立ちからか、アンドレイ・チカチーロは自分は神によって去勢されたのだと思い込むようになりました。

そんなアンドレイ・チカチーロは、いつの頃からか自分の性器を無意識にいじるようになったという事です。このような生い立ちと性的不能という病気が、アンドレイ・チカチーロを連続殺害犯に変貌させる要因となりました。

大学受験に失敗

性的なコンプレックスを遠ざけるかのように、アンドレイ・チカチーロは勉強にのめり込みました。ソ連でのブルジョア階層を志して、名門モスクワ大学法学部を受験するも失敗に終わってしまいました。

この時アンドレイ・チカチーロは、「自分は成績も良く試験は合格するはずだった。落ちたのは父親がドイツ軍の捕虜になったからだ」と落ちた原因を父親のせいにし、強者に対して強い憎悪を抱いて生きていく事になります。

自慰行為を目撃される

1960年、アンドレイ・チカチーロの妹が同じ土地の青年と結婚しています。この頃になると、アンドレイ・チカチーロは暇を見つけては1日に何度も自慰行為をするようになりました。自分の性器が不能なのを責めるようにして自慰行為にふけっていったという事です。当時アンドレイ・チカチーロは、電話工の仕事をしていました。

仕事仲間と電信設備の修理に来ていた時も隠れて自慰行為を行っていたところを仲間に見つかってしまい、激しく馬鹿にされたという失態を犯してしまいました。それ以来アンドレイ・チカチーロは、か弱い女性がアンドレイ・チカチーロの腕の中で抵抗するが、アンドレイ・チカチーロの自由にされてしまうといういわばレイプの妄想を抱くようになりました。

アンドレイ・チカチーロに訪れた結婚

当時のドイツでは結婚の時期が早いのが当たり前でしたが、アンドレイ・チカチーロは27歳になっても独身でした。結婚しないチカチーロを家族は心配していました。

28歳で妻を迎えた

当時のソ連では、18歳から19歳の間に結婚する人が殆どでしたが、アンドレイ・チカチーロはすでに27歳になっていました。そんなアンドレイ・チカチーロのことを心配した妹が、自分が働いていた美容院で知り合った友人のフェーニャ・オドナチェヴァをアンドレイ・チカチーロに紹介しました。

フェーニャは当時のロシアの男たちが酒飲みで依存症や酒癖の悪さが家族を苦しめている現実を知っていました。アンドレイ・チカチーロが酒を飲まない事を知り、フェーニャはチカチーロを気に入ったといいます。結果的にアンドレイ・チカチーロは、28歳の時に3歳年下のフェーニャと結婚することになります。

息子と娘を授かった

アンドレイ・チカチーロは、結婚するまでフェーニャとの性交をしていなかったと言っています。その理由をアンドレイ・チカチーロは、「結婚するまで、君の体を大事にしておきたい」と口にしていました。しかし、実際はアンドレイ・チカチーロが性交をすることを重荷に考えていたことが理由だとされています。

しかしその後の二人は、1965年には娘リュドミラ、1969年には息子ユーリーを授かっています。その事から、アンドレイ・チカチーロの生殖器は正常であったと考えられています。フェーニャとの性行為では、勃起しないため自分の指で彼女の中に射精する事を余儀なくされています。本当の意味での官能的な性行為とは殆ど無縁だったようです。

その後の息子のユーリーの人生についても後ほど説明します。

結婚を機に大学へ進学

アンドレイ・チカチーロは結婚の翌年から電気技師として働いていましたが、大学進学の夢を捨てきれず再び勉強を始めました。その結果30歳でロストフ大学教養学部、通信教育課程に合格します。

ロシア文学を専攻し、5年後に大学卒業の証と教員資格を取得します。そしてノヴォシャフチンスクで小学校の教師の職を得ました。この頃のアンドレイ・チカチーロは、若い女性との触れ合いが一生の仕事になることも夢見ていたと言われています。

教職に就いたが問題を起こして辞職させられた

教職に就いたアンドレイ・チカチーロは、実は極度のあがり症でした。授業を行うため教壇に上がると身動きが取れなくなったと言われています。子供たちへの指導はままならなく、担当していた上級生のクラスを崩壊させるようなこともあり、アンドレイ・チカチーロは教職には全く向いていなかったようです。

上級生クラスを担当した後に低学年クラスを担当しますが、チカチーロから体を触られたなどの噂が生徒の間で目立つようになりました。実際、女子生徒の体に触れながら猥褻な行為に及んでいたという事でした。

また、通勤途中のバスの中で少女に猥褻な行為をしていたことが同僚に目撃されて、校長に報告されたことから教職を辞職させられるという事態になりました。

52件の猟奇的な犯行の内容とは

幼いころから夜尿症と性的なコンプレックスを持って育った生い立ちのアンドレイ・チカチーロを癒す手段は、殺人による快楽となって現れ、52人の罪もない人を犠牲にします。その犯行の内容は、映画化されるほど想像を絶する凄惨なものでした。はたして、逮捕されるまでの経緯はどのようなものだったのでしょうか。

1978年12月に最初の被害者

殺人鬼アンドレイ・チカチーロの最初の殺害事件は1978年12月22日でした。9歳の少女を連れ出し、強姦を試みるも勃起せず、少女が抵抗したためチカチーロは少女の首を掴み全体重をかけて絞めました。動かなくなった少女に再び猥褻な行為をしますが少女が息を吹き返し言葉を発した事に驚き、少女の性器をめった刺しにして殺害しました。

行為の最中には射精したという事です。殺人鬼アンドレイ・チカチーロは少女が身につけていたスカーフを少女の両目に被せて隠しています。その後死体を凍った川に遺棄しました。これが殺人鬼アンドレイ・チカチーロの最初の殺害事件と言われています。チカチーロは殺害時に犠牲者の体を刺したり切り裂くことで性的興奮とオーガズムを得たそうです。

1983年から浮浪者と売春婦を多数殺害

アンドレイ・チカチーロは、最初の殺害から1983年6月までの間、殺害を行っていません。しかし6月から9月にかけて4人を殺害しています。ホームレスや売春婦であると思われる成人女性を酒や金で誘い、性交を試みるも勃起せず、女性に馬鹿にされたことに怒りを覚えたチカチーロはこの女性を殺害しています。

またチカチーロは、バス停や駅にいる家出した子供や浮浪者などに声を掛けて誘い出し殺害しています。子供に至っては、男女の区別なくおもちゃやお菓子で誘い殺害しました。1983年に合計6人分の遺体が発見されています。

無実の男性が冤罪で死刑にされている

アンドレイ・チカチーロの最初の殺害事件は、アレクサンドル・クラフチェンコという強姦殺人の前科を持つ男性が犯人と疑われていました。

妻や友人たちがアリバイ証言をしており、アリバイ自体も成立していたにもかかわらず、民警が強引に圧力をかけてアレクサンドル・クラフチェンコは逮捕され、厳しい尋問に負けて殺害を自供しています。クラフチェンコは1983年に冤罪ではありましたが、銃殺刑に処せられています。

事件の発覚が遅れた理由とは

上記でも説明しましたが、バス停で不審な振る舞いをしていたアンドレイ・チカチーロは緊急逮捕されていますが、確固たる証拠が出ませんでした。その後、拘留期限を延ばすために勤務先でリノリウムが紛失した事件の容疑者として公共物横領罪で逮捕されています。

これを受けた勤務先では告発を取り下げる代わりに依願退職をするようにアンドレイ・チカチーロに勧告し、正式に解雇されています。それが原因でアンドレイ・チカチーロは共産党から除名されています。

映画にもなった殺人事件の容疑者・アンドレイ・チカチーロは、血液型と体液が一致しない100万人に1人の特異体質である非分泌型でした。当時はDNA鑑定というものはなく、証拠となる鑑定結果がチカチーロからは出なかったという事です。

それが要因となり、アンドレイ・チカチーロの犯行を立件できなかったようです。当時の検査用試薬が鑑定結果を出せるほど開発が進んでいなかっただけなのではないか、とも言われています。

1990年に現場付近で目撃され逮捕へ繋がった

1990年11月6日、22歳の女性を殺害、切断したアンドレイ・チカチーロは、顔に返り血を浴びたまま現場付近を歩いていました。それが民警の目にとまりました。アンドレイ・チカチーロの勤務記録を調べたところ犯行日時と出張記録が完全に一致し、民警とKGBの監視下に置かれました。

しかしそれでもアンドレイ・チカチーロを逮捕する確固たる十分な証拠は得られなかったという事です。その後もアンドレイ・チカチーロは諜報員の追跡を受け、ビデオテープなどに撮られたりと民警やKGBの監視下にありました。

しかし11月20日に、これ以上アンドレイ・チカチーロを泳がせておくのは危険と判断した民警とKGBは同日午後3時44分、チカチーロが職場から帰宅するところを狙って逮捕しました。

逮捕後のアンドレイ・チカチーロ

男女52人を殺害した不遇な生い立ちの殺人鬼アンドレイ・チカチーロの逮捕後は、どのようになったのでしょう。判決の内容や、拘留中や裁判でのチカチーロの言動、そして被害者家族の様子などを紐解いていきます。

裁判中の異常な行動

逮捕後、拘留中のアンドレイ・チカチーロは、独房に入れられ特別監視体制をとられていました。当時のロシアでは、子供に対する犯罪は忌み嫌われていました。このような犯罪を犯した者は刑務所内でも虐待され、時には殺されてしまうこともあったほどです。

チカチーロの家族はその後KGBの特別な計らいにより、名前を変えて新しい身分をもらい暮らしています。妻のフェーニャはチカチーロと一度だけ面会しています。これは家族が望んだ面会ではなく、チカチーロの口座を解約せざるを得なくなり、サインをもらうためであったという事でした。

その際にチカチーロは妻に「病院に行って(勃起不全の)治療すべきだった」と語っていたそうです。

しかし裁判でのチカチーロの態度は異常なものでした。公判中にズボンを脱いで性器を露出させたり、自慰行為を始めたり、ソ連当時の国歌も歌ったりしました。

また、ウクライナ語をわざと喋って、ウクライナ語の通訳を要求したということです。さらに、殺人を自白したにもかかわらずそれを否定したり、犠牲者の数はもっと多いなどと言う事もありました。

それに加えて、「俺は妊娠している、本当は女なのよ」など支離滅裂な事を口走る事もありました。この時のチカチーロの目的は、自分を精神異常者だと思わせ判決を無罪に持ち込む思惑だったと、当時の弁護士は言っています。こんなチカチーロの判決はどうなるのでしょう。

事実を知らされた犠牲者の家族

裁判が進むにつれて、犠牲者の家族からはチカチーロに対しての罵詈雑言が飛び交うようになってきました。「サディスト」「人殺し」などと罵られたチカチーロは手を振って応えたといいます。犠牲者家族の一部は、判決を待つよりチカチーロを檻の中から出して、自分たちの手で処刑する権利を要求することもあったと言います。

また、犠牲者の名前が挙がった時は、失神してしまう家族も多くいました。自分の息子や娘を殺された家族の怒りは頂点に達していました。チカチーロは被害者を時々侮辱するような言葉を浴びせ、被害者家族の感情を逆撫でし、それに対して裁判長は激怒し退廷を命じられるという事も度々ありました。

被告側の弁護士もチカチーロのこのような態度を厳しく批判しました。チカチーロにとってこの言動は判決に影響するのでしょうか。

死刑判決に対するアンドレイ・チカチーロの反応

1992年10月14日、不遇な生い立ちのアンドレイ・チカチーロは52件の殺人で有罪となり、死刑判決を受けました。「彼が犯した途方もない犯罪を考慮すると、彼は刑罰という判決を受けるに値する。私は彼を死刑に処す」と裁判長は判決を述べています。判決を受けたチカチーロは「この判決はイカサマだ、お前の嘘なんか聞かねえぞ」などと言ったそうです。

この判決に被害者の家族からは拍手喝采だったという事でした。この時チカチーロに話す機会が与えられています。その際、チカチーロは「何の価値もない人間を掃除することで、社会貢献をした」と語ったそうです。

この後チカチーロは判決を不服として、上告しています。しかし、上告は新ロシア政権当時の大統領であるボリス・エリツィンによって拒絶されています。ロストフの刑務所内の防音措置を施された部屋でチカチーロは処刑されました。チカチーロの死後、脳は日本人に買い取られたという事です。

アンドレイ・チカチーロの息子も殺人者だった!

アンドレイ・チカチーロの家族は身分と名前を変えてひっそりと暮らしていると先程述べましたが、息子のユーリー・オドナチェヴァ(現在の名前)がウクライナ東部で殺人を犯していたことが判明しました。

その際に、ロシアの連続殺人鬼アンドレイ・チカチーロの息子だという事が世間に知れ渡りました。チカチーロの息子ユーリーは窃盗や暴力事件も起こしており、逮捕歴もありました。息子ユーリーも殺人鬼を父に持つ壮絶な生い立ちから心を病んでしまったのでしょうか。

アンドレイ・チカチーロを題材にした数々の作品

不遇な生い立ちのチカチーロですが死刑判決が下り刑が執行された後も人々の記憶から消えることはありませんでした。後に映画にもなったロシアの殺人鬼、アンドレイ・チカチーロの連続殺人は、ロシアのみならず世界を驚愕させました。現在までに映画や本、音楽にまでなっています。

それだけ世界の人々の記憶に焼きついた事件となってしまいました。映画や出版された本、話題になった音楽などを紹介していきます。

①本

ご紹介する本は、2008年にイギリスの作家、トム・ロブ・スミスが発表した『チャイルド44』という作品です。アンドレイ・チカチーロの事件をモデルとしていますが、時代設定は1950年代に変えています。

あらすじは、1933年ホロドモール大飢饉(1933年から1934年にかけてウクライナで起きた人工的な大飢饉)で飢餓にあえぐソビエト連邦ウクライナのチェルヴォイ村の兄弟が、食用目的で猫を捕まえるために森に入るも行方不明になってしまう…というようなストーリーから始まります。この小説は後に映画化されました。

②映画

アンドレイ・チカチーロに因んだ映画は2015年までに2本作成されています。

『ロシア52人虐殺犯/チカチーロ』という映画は、実際に起こったアンドレイ・チカチーロの事件をリアルに描いた作品になっています。映画でのチカチーロ役にはジェフリー・デマン、ロストフ民警本部刑事にスティーヴン・レイ 、ロストフ民警本部長にドナルド・サザーランドなどの豪華なキャストが出演しました。

前述の小説を題材にした映画『チャイルド44 森に消えた子供たち』は2015年に公開されました。映画の中では、トム・ハーディ、ゲイリー・オールドマンなどのキャストが出演しています。

③音楽

アメリカのヘヴィメタルバンド「スレイヤー」のCD『血塗ラレタ世界』に収録されている「サイコパシー・レッド」という楽曲がアンドレイ・チカチーロを題材にしたと言われる音楽です。5000枚限定で発売されています。

また、日本でも「ドゥームメタル・バンド」が犯罪史上最も最悪な複数の犯人「テッド・バンディやジェフリー・ダーマー、アンドレイ・チカチーロ、アルバート・フィッシュ」などの人物を取り上げた楽曲を制作して話題になっています。

アンドレイ・チカチーロは世界史上に残る殺人鬼だった

旧ソ連、現在のロシアで起こった不遇な生い立ちの殺人鬼アンドレイ・チカチーロの52人連続殺人事件は、世界でも類を見ない犯罪となりました。映画も制作されるほど有名になり、人々を恐怖に陥れました。

逮捕後のチカチーロは家族には後悔の念を表しましたが、被害者家族に対しては最後まで犠牲者を嘲笑うような表現を止めなかったという異常な言動ぶりを見せています。時を隔ててチカチーロの息子も殺人を犯したことにより、事件をより一層有名にしました。

映画や小説にもなっているこの事件は、世界の犯罪史に残り、永久に語り継がれていくこととなるでしょう。

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Mrsjunko

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