白鳥由栄とは!生い立ちや事件に脱獄方法まとめ【昭和の脱獄王】

白鳥由栄は「昭和の脱獄王」として知られる伝説の受刑者です。昭和11年から昭和22年にかけ、青森、秋田、網走、札幌の4つの刑務所での破獄に成功しています。どんな生い立ちで、どんな事件を起こした人物なのでしょうか。その後の余生を含め、白鳥由栄の全貌に迫ります。

白鳥由栄とは!生い立ちや事件に脱獄方法まとめ【昭和の脱獄王】のイメージ

目次

  1. 1白鳥由栄とは
  2. 2白鳥由栄の生い立ち
  3. 3白鳥由栄が脱獄した刑務所
  4. 4白鳥由栄の驚くべき特殊能力
  5. 5白鳥由栄が破獄をした理由
  6. 6白鳥由栄のその後
  7. 7白鳥由栄は稀に見ぬ昭和の脱獄王

白鳥由栄とは

白鳥由栄は、1936年(昭和11年)から1947年(昭和22年)にかけて4回も脱獄に成功したという伝説の受刑者です。刑務所の看守に危害を加えることなく、鮮やかな脱獄を繰り返したことから「昭和の脱獄王」とも呼ばれました。

吉村昭の小説「破獄」は白鳥由栄をモデルにしたものです。また同書は1985年には緒形拳が主演で、2017年にはビートたけしの主演によってテレビドラマ化までされています。白鳥由栄は、なぜこれほどまでに脱獄に成功することができたのでしょうか。

白鳥由栄のプロフィール

・愛称:昭和の脱獄王
・本名:白鳥由栄(しらとり よしえ)
・生年月日:1907年7月31日 
・現在年齢:1979年2月24日に死去
・出身地:青森県
・血液型:不明
・身長:不明
・体重:不明
・家族構成:妻、子

稀代の脱獄王と言われた人物

稀代の脱獄王と言われた白鳥由栄は、青森刑務所、秋田刑務所、網走刑務所、そして札幌刑務所という合計4つの刑務所での脱獄に成功しています。当時の看守たちから「一世を風靡した男」と呼ばれたとされる伝説の脱獄王です。

さぞかし極悪非道な人間かと思いきや、白鳥由栄の脱獄の歴史を紐解くと、あながちそうとも言い切れないことがわかります。白鳥由栄が事件を起こして脱獄を繰り返した背景には何があったのでしょうか。まずはその生い立ちから探っていくことにしましょう。

白鳥由栄の生い立ち

「昭和の脱獄王」白鳥由栄は、青森県東津軽郡の荒川村筒井で生まれました。3歳の時に父親を病気で亡くし、母親にも捨てられたという生い立ちをもっています。貧しい中で、厳しく過酷な環境のもとに育っていくわけですが、そんな白鳥由栄が悪事に手を染めるようになったきっかけは何だったのでしょうか。事件を起こすまでの人生を追ってみます。

3歳の時に叔母に引き取られる

白鳥由栄がまだ3歳の頃、父親が病気で息を引き取ります。稼ぎ頭を失ったことから生活は困窮していきます。耐えきれなくなった母親は、3人いた子供のうち白鳥由栄の弟だけを連れて再婚する決断をします。白鳥由栄と3歳年上の姉は、母親から捨てられるかたちとなったのです。

2人は青森で豆腐屋を営む叔母に引き取られることになりました。幼くして両親を失い、豆腐屋の仕事を手伝う日々が始まります。そんな背景の中、白鳥由栄の素行は次第に悪化をしていきます。

18歳で蟹工船の漁夫となる

白鳥由栄は18歳の時、蟹工船の漁夫となりました。蟹工船は夏場の時期だけ貨物船を改造して運行されたもので、穫ったカニを船上で加工して缶詰にするという作業が行われていました。白鳥由栄が乗っていたのは函館港からカムチャッカに出港する蟹工船でした。

想像を超えるような過酷な労働環境で知られ、その様子はプロレタリア文学の代表作とされる小林多喜二の小説「蟹工船」でも描かれています。白鳥由栄も後に行われたインタビューの中で「きつい仕事だった」と証言しています。

22歳で結婚

その後22歳の時、白鳥由栄は結婚します。新たに家庭を築いて魚屋を始めますが、当時は1929年に始まった世界大恐慌の時期でした。日本国内でも不況の嵐に見舞われて、株は暴落、多くの会社が倒産して失業者も激増しました。

不況の影響から白鳥由栄の商売もうまくいくはずがなく、何度か商売を変えてみるもうまくいきませんでした。蟹工船時代に賭博にハマりだした白鳥由栄は、再び賭博の世界にのめり込むようになります。

窃盗など悪事に手を染める

結婚するもの商売はうまくいかず、不況の世の中にあって賭博にハマり始めるという悪循環に陥ります。暮らしていた青森市内で、次第に窃盗などの悪事に手を染めるようになっていったのです。

窃盗事件や賭博を続ける中、青森警察署の留置場に入れられるまでになります。ところが白鳥由栄は、事件を起こして留置場に入れられても抜け出してしまうことでも知られていました。脱獄王の片鱗を、すでにこの段階で見せていたことになります。

強盗殺人事件を起こし服役

1933年4月9日のことです。悪事に手を染め始めていた白鳥由栄は、ついに強盗殺人事件を起こしてしまいます。事件は青森県東津軽郡の筒井村で発生しました。

午前2時頃、白鳥由栄は仲間とともに雑貨商に侵入しますが、住人に発見されて追いかけられます。つかまってしまった知人を助けるため、白鳥由栄は日本刀で切りつけます。つかまっていた知人も短刀で刺し、2人で逃亡をはかったのです。事件から2年後、2人は逮捕されて投獄されました。脱獄王としての白鳥由栄の歴史はここからスタートします。

白鳥由栄が脱獄した刑務所

白鳥由栄の脱獄の歴史は1936年に始まります。青森刑務所、秋田刑務所、網走刑務所、そして札幌刑務所という合計4つの刑務所での脱獄に成功しますが、白鳥由栄はどのような方法で脱獄をはかったのでしょうか。脱獄に成功した4つの刑務所について、それぞれ解説します。

①青森刑務所

1936年6月、事件を起こして青森県警に勾留されていた白鳥由栄は青森刑務所に入ります。看守がいない隙を狙って、針金を拾ったことが一つのきっかけになりました。白鳥由栄は針金を使って鍵を作ることを思いつくのです。

さらに小窓から手を出してみると、手が鍵穴に届くことに気づきます。風呂上がりの機会を利用して、白鳥由栄は鍵穴に手のひらをあてて鍵穴の形状を写し取ります。手製の鍵をつくることにしたのです。脱獄を成功させるべく、白鳥由栄は用意周到に準備を進めていきます。

6月18日のことです。看守が交代する真夜中の時間に15分の隙があることを見抜いた白鳥由栄は、その時間を狙って脱獄します。房内の布団をふくらませて自らが寝ているような工作をしていたこともあり、白鳥由栄の脱獄が発覚するのも遅れてしまったのです。

②秋田刑務所

白鳥由栄が二度目の脱獄に成功するのは、1942年6月15日のことでした。1936年11月に無期懲役が確定して収監された白鳥由栄は、1937年4月に青森刑務所から宮城刑務所へ、そして1940年4月には東京の小菅刑務所へと移動します。小菅刑務所の看守は今までの看守と異なり、丁寧な扱いをしていたようで、白鳥由栄は従順に過ごしていたといいます。

ところが1941年10月になると都内の治安維持の観点から長期囚たちが宮城や秋田、網走などへの刑務所へ移されることになります。白鳥由栄は秋田刑務所へ移動することになりました。脱獄歴のある白鳥由栄は、コンクリートに銅板が貼られた「鎮静房」という特別な部屋に入れられます。高さ3メートルの場所にある採光の窓か、扉しか出口はありません。

白鳥由栄はその天窓を狙うことにします。驚異的な身体能力で3メートルの高さをよじのぼり、天窓にあったブリキ板と釘を使ってノコギリを作りました。そして看守の目を盗みながら、毎日のように少しずつ窓枠を切っていったのです。こうして1942年の6月15日、白鳥由栄はついに2度目の脱獄に成功します。

③網走刑務所

白鳥由栄が三度目の脱獄に成功したのは、1944年8月26日のことです。1942年の6月に脱獄した白鳥由栄が向かったのは、彼が慕っていた小菅刑務所の看守の官舎でした。これでは脱獄の意味が無いわけですが、彼は模範囚として過ごしていた小菅刑務所での服役を希望するのです。ところが願いがかなうことはなく、1943年4月に網走刑務所に収監されます。

網走刑務所は、特に重罪にある人間を入れるためにつくられた過酷な環境の刑務所でした。脱獄犯で知られた白鳥由栄は「四舎二十四房」という特殊な独房に手錠付きで収監されます。驚くべきことに白鳥由栄は手錠の破壊に成功します。そしてさらに強固な手錠に付け替えられます。ところがそれもまた破壊し、結果として足錠までハメられることになります。

さすがの白鳥由栄も脱獄を観念しますが、扉についている視察口に目をつけます。鉄枠に鉄の棒が5本もはめこまれた堅牢なものでしたが、白鳥由栄は毎日の食事で供される味噌汁を毎日少しずつ吹き付けることで、鉄枠と手錠を錆びさせるという技を思いつきます。何十日と続けていくうちに、ついに鉄枠が外せる状態にまでなりました。

視察窓の大きさは20cm X 40cmという小さなものでしたが、白鳥由栄は肩の骨を外すという特技をもっていました。こうして彼は、再びの脱獄に成功するのです。厳しいことで知られた網走刑務所からも脱獄したとして、話題になりました。

④札幌刑務所

白鳥由栄が逮捕されるのは、網走刑務所から脱獄して2年後のことです。山中で過ごしていた白鳥由栄は1946年8月、札幌に向かう途中の砂川で青年を刺殺します。畑泥棒と間違われて暴力をふるわれたことがきっかけで、相手を殺害するのです。3日後には逮捕され、同年12月に死刑判決が下されます。1947年2月に札幌刑務所に収監されました。

白鳥由栄の部屋は凶暴犯を入れるための特殊な部屋で、さらに脱獄対策が施された頑強な環境です。しかも6人1組の看守たちによって警戒されるという厳重さでした。こうした環境にもかかわらず、白鳥由栄は1948年3月31日に四度目の脱獄に成功します。天井も扉も破れないと観念した白鳥由栄が目をつけたのは床です。トンネルを掘ることを思いつくのです。

取調室に連行される際に見つけたドアの釘と、便器の鉄板を使ってノコギリを作ります。貧乏ゆすりをしているフリをしながら、少しずつ床板を切断していったのです。食器と指を使って穴を掘り、外に出ることに成功します。脱獄後、白鳥由栄は盗みをしながら再び山中で暮らすことになります。

白鳥由栄の驚くべき特殊能力

白鳥由栄は四回も脱獄に成功するという荒業をやってのけています。その脱獄を支えていた背景には、白鳥由栄の驚くべき特殊能力がありました。ここでは彼の特殊能力として「関節を容易に外せた」ということ、「健脚の持ち主」であったということ、そして「群を抜いた怪力ぶり」だったという3点をご紹介します。

①関節を容易に外せた

白鳥由栄の特殊能力の一つは、身体の関節にありました。関節を簡単に外すことができるという特異体質を持っていたというのです。そのため頭が入るスペースさえあれば、全身の関節を脱臼させることによって、簡単に抜け出すことができたそうです。

三度目の脱獄となったのは網走刑務所でした。白鳥由栄はわずか20cm X 40cmという大きさの視察窓から脱出しますが、肩の骨を外すという特技をもっていなければ不可能なことでした。網走刑務所という厳しい環境からも、彼は難なく抜け出すことができたのです。

②健脚の持ち主

白鳥由栄の特殊能力の二つ目は、その健脚ぶりにありました。1933年に知人と組んで雑貨商に侵入しますが、白鳥由栄が逃走に成功したのは足の速さゆえでした。また脱獄に際して建物を出た後、刑務所の周囲には高い壁がありますが、丸太を使うなどして容易に脱出することに成功しています。これも白鳥由栄の健脚ぶりが支えたものだと言えます。

また二度目の脱獄現場である秋田刑務所では、高さ3メートルの天窓までよじ登って少しずつ作業を進めるという驚異的な身体能力を示しています。脱獄後に山中で暮らしている時も、足の俊敏さのためか、何度も窃盗に成功しています。話によれば、白鳥由栄は1日に120kmもの距離を走ることができたと言われています。まさに健脚の持ち主でした。

③群を抜いた怪力ぶり

白鳥由栄の特殊能力の三つ目は、その群を抜いた怪力ぶりにありました。三度目の脱獄場所となった網走刑務所で、白鳥由栄は特殊な独房に手錠付きで収監されますが、その怪力ぶりで手錠の破壊に成功しています。さらに強固な手錠に付け替えられますが、それもまた破壊をするという怪力ぶりを見せています。

その後40歳を超えても白鳥由栄の怪力ぶりは衰えなかったようで、数々のエピソードが伝説として伝えられています。

白鳥由栄が破獄をした理由

白鳥由栄は逮捕されても逮捕されても、繰り返し脱獄をしてきました。しかし、きちんと待遇してくれた刑務所では従順な態度を見せたり、脱獄した後、慕っていた刑務官の官舎を訪れるというような不思議な行動もとっています。白鳥由栄が破獄をした理由とは何だったのでしょうか。

①拘留生活に飽きたから

白鳥由栄が最初に脱獄をしたのは、青森刑務所でした。青森刑務所からの脱獄の理由について、白鳥由栄は刑罰が恐ろしかったからではないと語っているようです。なかなか最終的な判決が下りないために、勾留生活に飽きたことが脱獄を決めた原因であると証言しています。

逆に言えば、理不尽に勾留を長引かせているのではないかとの不信感を抱いていたのかもしれません。

②環境が劣悪だったから

白鳥由栄が脱獄を決めた背景には、刑務所の環境が劣悪だったからという理由もありました。刑務所での待遇があまりに劣悪だったことから白鳥由栄は刑務所に抗議をしたことがあるようです。その際、白鳥由栄は受け入れられるどころか、かえって過酷な懲罰を受けるハメに陥ったといいます。

当時の刑務所は、看守によって対応ぶりが変わることも少なくなかったと言われます。白鳥由栄は運が悪いことに、ひどい態度をとる看守にあたってしまっていたようです。白鳥由栄の脱獄の背景には、そうした対応に対する抗議の意味合いもあったのかもしれません。

③人間扱いされなかったから

脱獄を繰り返したことから、白鳥由栄は凶悪犯のようにイメージされがちです。しかし実際には義理堅い人物だったようで、白鳥由栄を人間扱いした看守に対しては従順な対応をとっていたと言われています。

その一方で、理由もなくひどい対応をとる看守や、人間扱いすらしないような刑務官には激しく抗議を行ったといいます。人間扱いされないようなひどい環境であったからこそ、脱獄を決めたという背景があるようです。犯罪人であるとは言え、ある意味では曲がったことがきらいで、正義感のある人間だったという見方もできそうです。

白鳥由栄のその後

こうして白鳥由栄は四回もの脱獄に成功するわけですが、1948年7月になると再び刑務所へ収監されます。都内にある府中刑務所に行くことになりますが、ここでは脱獄を考えることはなかったようです。

それどころか模範囚として最後まで刑に服するという行動をとりました。理由は何だったのでしょうか。またその後の白鳥由栄はどんな人生を過ごしたのでしょうか。

府中刑務所では刑に服す

府中刑務所に入った白鳥由栄が脱獄を考えなかったこと、さらには模範囚として真面目に刑に服したことは、ある意味では驚きではありません。なぜなら当時の府中刑務所の所長は、彼が小菅刑務所時代から慕っている鈴木英三郎だったからです。看守も白鳥由栄を一般の受刑者と同じような待遇で取り扱いました。

今までに脱獄してきた刑務所のような劣悪な環境とは異なり、看守たちは白鳥由栄を人間的に対応して丁寧に取り扱いました。さらには手錠もはずされて、施錠もされなかったと言われています。脱獄をしなければいけない理由そのものが無かったのです。その後1961年には仮釈放されることになります。

仮釈放後は平穏に暮らす

1961年に仮釈放されてからも、白鳥由栄は何の問題も起こすことなく平穏に暮らしています。年齢にして54歳を迎えていました。出所した後は、建設作業員として働いていたようです。ここでも何か問題を起こしたようなことは無かったようで、ひたすら真面目に働いていたと言われています。そこには「連続脱獄犯」としての影は全くありませんでした。

三井記念病院にて死亡

1979年2月24日、白鳥由栄は71歳でこの世を去ります。釈放されてから18年が経過していました。死因は心筋梗塞です。千代田区神田和泉町にある三井記念病院で亡くなりました。

当初は遺体の引き取り手が無く、葛飾区にあるお寺で無縁仏として供養される可能性もあったようです。しかし出所後に近所づきあいから親しくなった女性が引き取ることになり、無事に埋葬されることになりました。

白鳥由栄は稀に見ぬ昭和の脱獄王

白鳥由栄は稀に見ぬ「昭和の脱獄王」と言われています。1936年(昭和11年)から1947年(昭和22年)にかけて、実に4回も脱獄に成功したという伝説の受刑者です。しかし今まで見てきてわかる通り、彼が脱獄をはかったのは刑務所でのひどい待遇や理不尽な扱いに対する抗議の意味合いが含まれていました。

そのため彼が脱獄をはかる際は、刑務所の看守に危害を加えることなく逃走するというパターンをとっています。また彼を人間扱いする刑務官には心を許します。1942年の6月に秋田刑務所から脱獄した白鳥由栄が向かった先は、彼が慕っていた小菅刑務所の看守の官舎でした。そして小菅刑務所への移動を申請するのです。人間的な対応を求めての脱獄でした。

1948年3月、札幌刑務所から四度目の脱獄に成功しますが、その後1949年1月に職務質問に会います。その際、警察官にタバコを求めたところ、当時は貴重品でもあったタバコ「ひかり」を差し出されます。彼はこれに感謝して自首をしています。そして自分を逮捕することで、その警察官の手柄にしてほしいとまで願うのです。

もちろん犯罪事件は許されるものではありません。しかし白鳥由栄のねじまった正義感を見ていると、少年のようなあまりにも素直過ぎる性格すら透けて見えてくるようです。白鳥由栄の問題には、刑務所における犯罪人の人権の問題も含め、いろいろな観点から考えさせてくれる素材があるといえるでしょう。

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この記事のライター
渡邉 裕晃
インドネシアと日本のハーフ。共著書に「インドネシアのことがマンガで3時間でわかる本」(明日香出版社)がある。

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