玄倉川水難事故(DQNの川流れ)とは!詳細と生き残りのその後は

玄倉川水難事故はDQNの川流れとも名前がつけられています。リーダーの加藤直樹たちが言い放った暴言がDQNの川流れといわれる所以です。生存者は12人という悲惨な水難事故の一つが、この玄倉川水難事故です。事故のその後や会社名、裁判などについて調べてみました。

玄倉川水難事故(DQNの川流れ)とは!詳細と生き残りのその後はのイメージ

目次

  1. 1玄倉川水難事故(DQNの川流れ)とは
  2. 2玄倉川水難事故はなぜ「DQNの川流れ」と言われるのか
  3. 3玄倉川水難事故(DQNの川流れ)に遭ったDQNたちの詳細
  4. 4玄倉川水難事故(DQNの川流れ)の経緯
  5. 5玄倉川水難事故(DQNの川流れ)を受けての世の中の対応
  6. 6玄倉川水難事故(DQNの川流れ)は事件との噂も
  7. 7玄倉川水難事故(DQNの川流れ)をめぐる裁判とその後
  8. 8玄倉川水難事故(DQNの川流れ)が教えてくれた教訓

玄倉川水難事故(DQNの川流れ)とは

毎年夏になると、海や川での事故がニュースになります。気をつけているつもりでも、一瞬の気の緩みから起こってしまうのが水の事故といわれます。それ以外にも、夏には自然災害が多く発生します。大雨による河川の増水や洪水、堤防などの決壊によって濁流に流されてしまう水害事故などです。

玄倉川水難事故(DQNの川流れ)は、1999年の夏に起きた川の増水により犠牲者を出してしまった水難事故の一つです。毎年のように起きている悲しい水難事故のなかで、なぜこの玄倉川水難事故(DQNの川流れ)だけが有名になっているのでしょう。玄倉川水難事故がDQNの川流れと呼ばれるのは、なぜでしょうか。

1999年に玄倉川で発生した水難事故

玄倉川水難事故(DQNの川流れ)は、1999年8月14日に神奈川県足柄郡上郡山北町の玄倉川の中州で発生しました。事故前日の13日夕方15時ごろから雨が降り始め、16時50分には神奈川県内全域に大雨洪水注意報が出されました。

ここまでであれば、玄倉川水難事故は自然災害として扱われたはずです。ところが玄倉川水難事故がDQNの川流れと名前をつけられていることからわかるように、この事故は人災であるとも考えられるのです。激しい雨が降る中でDQNな人たちが起こした異常な行動のために起きた事故だったため、皮肉をこめてDQNの川流れとも呼ばれているのです。

生存者は25名中12名

玄倉川水難事故(DQNの川流れ)での犠牲者は13人です。1999年8月13日午前10時ごろから玄倉川中州でテントを設営しキャンプをしていた25人のうち、濁流に流された人たちは18人でした。そのうちの13人が遺体となって発見されたのです。参加者25人中の生存者は12人という痛ましい事故でした。

痛ましい事故が起きてしまった直接的な原因が、どう考えても生き残りの人たちを含めた25人のDQNな行動が起こした人災としか考えられない事故だったのです。

通称「DQNの川流れ」

DQNはドキュンと読みます。既に死語になっている言葉ですが、ネットスラングの一つで非常識な人や自己中心的過ぎる人を指す侮蔑語です。この玄倉川水難事故は別名としてDQNの川流れと皮肉たっぷりに呼ばれています。河童の川流れとは、その道の名人であっても時には失敗することがあるという意味です。それをもじってDQNの川流れと揶揄されています。

玄倉川水難事故が、河川の増水による自然災害であるだけならば、DQNの川流れなどという名前はつけられません。DQNな人たちの無謀な行動こそが、13人もの犠牲者を出してしまった原因なのです。そしてDQNな人たちが言葉通りに川に流されていってしまったので、この水難事故がDQNの川流れと名付けられてしまったのです。

玄倉川水難事故はなぜ「DQNの川流れ」と言われるのか

それではなぜ、玄倉川水難事故がDQNの川流れという別の名前をつけられてしまったのでしょうか。もちろん名前の通りにDQNな人が川に流されたからということなのですが、生存者や犠牲者の人たちのどんな言動がDQNなものだったのでしょうか。玄倉川水難事故がDQNの川流れと名前をつけられてしまった直接の原因を調べてみました。

避難勧告への態度が悪かった

雨が降り始めてまもなく、玄倉ダム管理人や地元の警察官や近隣住人たちが河川にいた行楽客に注意を促します。その後、ほとんどのグループはこの注意に従って河川より高台に待避しました。ところが被害に合った一行は「放っておいて。楽しんでんだよ。」とリーダー格の人物が暴言を吐きます。続けてテント内の一行から様々な暴言が飛び交いました。

「地元の人は臆病」「田舎の人は他人のプライバシーを侵すのが趣味ね」などという暴言が浴びせられ、その後もリーダー格の男がわざわざ注意しにきてくれた警察官やダム管理人や地元住人に対して「早く失せろ、殴るぞ」とまで暴言を吐いています。

救助活動を行うレスキュー隊への暴言

その後、レスキュー隊に救助されているときのリーダー格の男の暴言はひどいものでした。悪天候で救助ヘリが飛ばせず救助に苦労している救助隊隊員に対しても「おい、こら、ヘリを呼べ」「もたもたすんな」「仕事なんだから早く助けろ」などと暴言を吐き続けます。生き残りをかけた必死の心理状態であるにせよ、救助隊に対して失礼極まる態度でした。

この様子はテレビ中継されて全国に知れ渡ります。当時はプライバシーへの配慮が少なく、顔が鮮明に映っていました。暴言を吐くリーダー格の男の姿はワイドショーなどで繰り返し放送されていました。このためリーダーの男の名前や会社名に至るまで全国に知れ渡ってしまいました。

救助後の態度もひどかった

生存者12人のなかに、リーダー格の人物が含まれていました。この男は救助隊や警察などに対して感謝の言葉も無く、その後に謝罪記者会見などもしていません。それどころか、救助されてすぐに「テントを回収したら返して欲しい」というDQNな発言をしています。

また地元の方の善意からオニギリなどの差し入れがあったのですが、生き残りのリーダーの男はこれに対して「まずい」「もっとうまいものを食わせろ」などと暴言を吐き、しかもオニギリを地面に叩きつけるという愚公まで犯しています。

これらはテレビ中継されていたため、視聴者は被害にあった一行に対してかわいそうだという気持ちよりも自業自得だという気持ちになりました。生存者のこうした態度や暴言などが全国に知れ渡ったため、生き残りや犠牲者となった25人一行に対してDQNな人たちという形容詞が使われるようになりました。

玄倉川水難事故(DQNの川流れ)に遭ったDQNたちの詳細

玄倉川水難事故(DQNの川流れ)の被害に遭った人たちは、数々の暴言を吐き、身勝手な行動をし、最終的には犠牲者になってしまいました。DQNな言動をとった生存者や犠牲者たちは、どんな人なのでしょうか。生き残りの人たちの情報をもとに、犠牲になった方のお名前や会社名などについて調べてみました。

リーダーの名前は「加藤直樹」

この25人のキャンプグループのリーダー格の男の名前は、加藤直樹といいます。最後まで中州に取り残された18人のうちの生存者の1人です。加藤直樹の一家4人がキャンプに参加しています。

生存者のうちの2人は加藤直樹の子供でした。長女の名前は朝香で長男の名前は一樹です。長女の朝香は事故後数年たってブログを開設して事故について書いていました。その内容が自己中心的な内容で、まさにDQNだと批判されました。現在このブログは閉鎖されています。事故当時の朝香は5歳、長男一樹は1歳でした。加藤直樹の妻は犠牲者となっています。

所属していた会社名は「富士繁」

この総勢25人からなるキャンプグループは、横浜市内にある産業廃棄物処理会社の従業員とその家族や友人たちでした。産業廃棄物処理会社の会社名は株式会社富士繁という名前です。人の名前のように見える会社名ですが、1950年横浜南区に創業した会社の名前です。富士繁は事件後も会社名を変更せず、現在も富士繁という会社名のままで操業中です。

玄倉川水難事故(DQNの川流れ)の経緯

オートキャンプは今で言うゆるキャンのはしりであり、簡単に設営できるテントや整備されたキャンプ場を使って家族でも楽しめる娯楽です。特に河原でのバーベキューは昔から定番のキャンプであり、日帰りでも泊まりでも人気キャンプサイトは賑わっています。

河原でバーベキューをする楽しさと背中合わせにあるのが、水難事故です。この玄倉川水難事故(DQNの川流れ)は、中洲に取り残された18人が流されていくところまでをテレビ中継されたこともあって、水難事故では有名な事故になりました。この事件がDQNの川流れとまで言われてしまうようになった経緯を踏まえ、事故を時系列とともにまとめました。

事故発生の前日

1990年代後半から、オートキャンプブームが到来していました。キャンプ道具を車に積み込み、キャンプ場でバーベキューなどを楽しむというものです。全国各地でキャンプ場ができました。親子でキャンプするケースも増えました。更に事故当時は、ペルセウス座流星群が良く見られるということで、泊りがけでキャンプを楽しむグループが多く見られました。

事故当時はお盆休みということもあり、キャンプ場は非常に込んでいました。事故現場は、玄倉川キャンプ指定地ではなく、単なる玄倉川の河原でした。この河原の上流下流のあわせて6地点に約50のグループがオートキャンプなどを楽しんでいました。

加藤直樹たち25人からなるグループは8月13日10時ごろ玄倉川を渡り、中洲にテントを設営してバーベキューなどを楽しみ始めました。

事故発生当日

1999年8月13日15時ごろから雨が降り始めます。7月下旬には長崎県諫早で当該観測地点における記録を更新する1時間に101mmのゲリラ豪雨が観測されています。事故前日、勢力こそ弱かった低気圧が濃い雨雲を伴ってオホーツク海で発達した高気圧の影響を受けて移動速度を落とします。このため、関東から東北地方にかけてにゲリラ豪雨をもたらせました。

15時20分ごろに事故発生現場から5km上流にある玄倉ダムの管理職員が1回目の巡視を行いました。河川の増水や水位上昇の危険性を警告・退避を促します。この警告で、ほとんどのグループは水際から退避し一段上の土手まで車やテントを移動しました。

ところが、犠牲になった25人のグループだけは、警告を無視して河原に居座りました。アルコールも入って気が大きくなっていたこともあり、高飛車な態度をとります。

ダム管理職員だけではなく、実際には地元住民たちも避難を勧めていました。「水かさが増えるから中州から避難した方がいいですよ」とアドバイスした住人に対してグループの一人が「大丈夫だよ。俺達は馴れてるから」と冷笑しながら反論しました。

「私は地元の者だが、川は氾濫するよ。高台に行った方がいい。子供もいるんでしょう?」と冷静に忠告した地元の方に対して、リーダーの加藤直樹が「放っておいて。楽しんでんだよ」と言い放つと同時に「地元の人は臆病」「見張りを置くから平気」「田舎人は他人のプライバシーを侵すのが趣味ね」などとの声が25人の中から広がりました。

このとき、グループの中にいた小さな女の子が「あのおじいさんの言うとおりにしようよ」と小さな声で提案していましたが、加藤直樹たちは少女の声を無視しました。

16時50分に、神奈川県全域に大雨洪水注意報が発表されました。25人のグループのうち、日帰り参加の予定であった4人が19時ごろに帰宅し、その後グループは21人になります。

19時35分ごろ。雨足が激しくなります。このため水位が上がってきた玄倉ダムが放流予告のサイレンを鳴らしました。このサイレンを鳴らしたので、流石に引き上げているだろうとダム管理職員が2回目の巡視をします。ところが一行はまだ中州でパーティーをしていました。加藤直樹は酔った勢いで再び職員に「失せろ」などと暴言を吐きます。

これは本当に危険だと判断した職員は20時6分、管轄の松田警察署に通報します。玄倉ダムは限界水位を超え始めたため、20時20分に放流を開始します。21時10分、到着した松田署の警察官とダム管理職員とで一行に退避するように言います。この警告に比較的年齢の高い社員とその妻など3人が警告に従って、中州を離れます。グループは18人になりました。

警察官はハンドマイクを使ってグループに安否を尋ねます。中州を渡るには水位が上がりすぎて、しかも水流が激しかったので、警察官はハンドマイクを使ったのです。テントからは「うるせえ、警察にそんなことを言われる筋合いは無い」と暴言が返ってきます。

テント内には子供がいたこともあり、この時間にこの水流の川を渡らせるほうが危険だと判断した警察官は、テント内の安否と人数の確認をします。「大丈夫」という反応があった後、警察官は万が一のことがあったら後方の山に避難しなさいとアドバイスを残して、現場を離れます。このとき、警察官にはその後の急激な豪雨は予想できませんでした。

警察官は、加藤直樹たちの車が止めてある側に戻るのは水流が強くて避難するのは無理だろうが、反対側の岸にはなんとかたどり着けそうだと判断したのです。

翌朝、8月14日朝5時35分。神奈川県全域に大雨洪水警報が発令されました。朝6時ごろ、前夜に帰宅した数人がやっとのことで川を渡り、テントの中に残っている18人に避難するように呼びかけます。ところが18人はこの助言を拒否します。既に水位は膝下ほどで、大人が川を渡るのにもやっとくらいの水流の強さ・増水でした。

貯水機能の無い玄倉ダムは8月14日6時35分に本格的な放流を開始します。7時30分ごろ、松田署警察官が巡回します。テント2mまで近づき退避勧告をしますが、反応が無く警察官は自分の身の危険を考えて川から離れます。

その後、本格的な暴風雨となります。状況を見かねた前夜退避した3人たちが、8時4分に救助要請のため119番通報します。テント内の一行はアルコールのためか、翌日8時ごろまで寝ていました。そしてテント内に濁流が流れ込んできて、慌てて外に出てはじめて状況を理解します。既にこの時点では、自力で岸にたどり着ける状況ではありませんでした。

8時30分ごろ、中州は完全に水没しました。両岸から80mのところにあった一行のテントはすぐに濁流に流されます。18人はパニック状態になっていました。ここから生き残りをかけた18人の必死の抵抗が続きます。

18人は、中州の一番盛り上がっているところに固まって濁流に耐えていました。3本のビーチパラソルで雨をよけ、上流側に加藤直樹をはじめ男性3人で水流を弱めようとします。下流側には乳児を抱えた男性がいます。流されないよう生き残りをかけて、必死に流れに耐えます。既に全員の顔が恐怖で引きつっています。

9時7分に足柄上消防組合本部救助チームの5人が現場に到着します。勇敢な隊員が中州にたどり着こうと試みますが、日ごろ訓練している隊員であっても激しい水流のためたどり着けません。生き残りの18人は既に腰まで水に浸かっています。

10時ごろには救助チームが11人に増えます。うち2人が相当な迂回をしてやっとのことで対岸断崖に回り込みました。更にテレビ中継クルーも現場到着・取材が開始されます。加藤直樹の「早く助けろ」「お前らの仕事だろ」「ヘリを呼べ」との暴言が全国に中継されます。

救助チームは10時10分に救助ヘリの出動要請をします。ところが悪天候のために、二次災害を恐れて飛行許可が下りません。救助チームは10時30分になると対岸に救助用のロープをロケット砲で打ち込むことを試しますが、対岸に到着したものの、流れが激しくロープが流されてしまったり、大きな流木などのために対岸にロープが固定できませんでした。

11時ごろには警察からの要請で玄倉ダムの放流を一時中止する異例の措置をとります。ところがもともと貯水能力のない発電用ダムであるためすぐに満水となり、決壊防止のため約5分で放流再開となります。

11時38分になると最大水深は2mを超えました。中州あたりの水深は大人の胸あたりの深さまでになっていました。そしてついに救助隊や地元住民たちの目の前で、18人はまとめて流されます。この瞬間はテレビニュースで全国へと放送されます。

1歳の加藤直樹の長男を抱いていた加藤直樹の兄は、とっさに岸に向かって放り投げます。このとき岸で見守っていた別のグループのキャンパーが勇敢にも救い上げます。

12時14分に事故現場に対策本部が設置されます。数名が泳いでいると誤情報が入ったことから、下流にある丹沢湖で捜索が開始されます。当時はまだ大雨が降っていました。この状況下、ボートによる丹沢湖の捜索です。救助隊の顔はみるみる疲労に満ちていきます。

17時に神奈川県知事が陸上自衛隊に災害派遣を要請します。19時に丹沢湖で女性2名の遺体を回収します。

事故発生の翌日以降

翌日の8月15日朝7時ごろに警察・消防・自衛隊の救助チームがリーダー格の加藤直樹を含む生存者4名を救出します。前日流されたとき自力で岸にたどり着いたものの、体力的に限界を超えていたためにその場で夜を過ごした4人でした。

捜索隊は総勢340人体制でした。大雨・増水による大きな流木などのために、捜索は困難を極めます。藤沢市消防局・横浜市消防局・小田原市消防本部・川崎市消防局などの水難救助隊や地元自治体も捜査協力しました。その後、近隣住人も支援活動しました。更にその後には三保ダムは捜査協力のため、丹沢湖貯水の大量放出を実施しました。

翌日から28日までに10人の遺体を収容します。その後、最後の行方不明者であった1歳の女の子が29日に発見され、捜査活動が終了します。それは自衛隊が撤収する日のことでした。

犠牲者になった方々のお名前です。まず加藤の妻である美江と加藤直樹の兄である富士繁作業員の加藤裕二、次に戸塚工場のドライバーだった松尾利美と、その妻の理恵、長女の歩と長男の駿兵の一家4人も犠牲となりました。

さらに、同じく戸塚工場のドライバーをしていた梶ヶ谷剛と彼の婚約者の亜希子の2名、同じく戸塚工場のドライバーの高橋直人と恋人の小野崎恵子の2名、最後に戸塚工場ドライバーで、原田敬介とその長女の千佳の2名も犠牲になっています。

株式会社富士繁の従業員が5名と、その妻2名、1歳から9歳の子供があわせて4名、社員の婚約者とガールフレンドの2人、合計13人が亡くなりました。

玄倉川水難事故(DQNの川流れ)を受けての世の中の対応

大きな事件・事故が起こると、その後に事件・事故を予防する方法についての対策が講じられます。自然災害の場合、予測は可能であったのかどうかも十分検討されます。万が一同じ災害が発生した場合、迅速な対応が生存者の数を増やします。予防策がきちんと実施されていれば、犠牲者を出さずに済みます。

世の中は、この玄倉川水難事故(DQNの川流れ)が起こってから、どのような対応をしたのでしょうか。玄倉川水難事故(DQNの川流れ)以降に改善されたことを調べてみました。

各自治体による救助体制の強化

国土交通省では「危険が内在する河川の自然性を踏まえた河川利用および安全確保のあり方に関する研究会」が開かれました。この研究会で一番問題視されたのは、強い退去措置が取れなかったことでした。また救助チームの装備や訓練などに対しての更なるレベル向上についても討論が行われました。

その結果、2000年4月1日に事件現場の管轄であった足柄上消防組合消防本部は、南足柄市消防本部と組織統合し、足柄消防組合消防本部という名前の新組織を結成しました。これで十分な救助体制を取れるようになりました。また2004年には東京消防庁でも、急流救助を専門とするスイフトウォーターレスキュー隊という名前の特別救助隊が結成されました。

気象庁による台風の表現の変更

気象庁は弱い・小型という言葉が危機感を感じさせず、大きな事故につながる危険性を考えて使用する言葉を変えました。2000年6月1日から、弱い熱帯低気圧ということを単に熱帯低気圧という言い方にとどめています。

台風の強さに関しても弱い台風と並の強さという言葉を廃止し、さらに台風の大きさを表現するごく小さい台風と小型・中型という言葉を使わなくしました。

玄倉川水難事故(DQNの川流れ)は事件との噂も

玄倉川水難事故(DQNの川流れ)は、事故ではなく事件であるという噂がありました。DQNな人たちがとった行動が揶揄されてしまうのは仕方がないとしても、事件とまで噂されるには生存者のリーダー格の男の謎の行動が関係しています。

なぜ玄倉川水難事故(DQNの川流れ)が単なる水難事故ではなく、なにか裏があるような事件ではないのかと疑われたのでしょうか。

避難を拒んでいたリーダーの加藤直樹

玄倉川水難事故(DQNの川流れ)が事故ではなく事件と噂される理由は、リーダーの加藤直樹が取った行動に起因します。事故当日は夕方から雨が降り出し、夜にかけて風も伴う悪天候でした。天気予報でも前日から天気が次第に崩れることを予報していました。

川の増水は、誰にでも予測できることでした。事故現場は安全を考慮したキャンプ地ではなく、たんなる河原でした。大雨が降り始めたからダム管理人や警察官や地元住民の方々が何度も退避するように勧めています。アルコールが入っていたからといって、加藤直樹はなぜ、かたくなに退避警告を拒み続けたのでしょう。このことが、この事故の最大の謎です。

一番のDQNな人であった加藤直樹が生き残りました。このため、リーダーの加藤直樹には事故直後から何か裏があるのではないかという噂が付きまとったのです。

週刊誌が唱えた保険金殺人説

加藤直樹の態度に疑問を感じた週刊誌記者の一人が、保険金詐欺の疑いを持ちます。加藤直樹が勤めていた富士繁戸塚工場は、産業廃棄物処理工場のなかでも比較的歴史のある会社でした。地元住人からは、従業員の柄が悪いと噂されていたものの、経営難ではなかったので加藤直樹個人が仕組んだ保険金詐欺事件ではないのかと記者が疑いを持ったのです。

実際には株式会社富士繁は事故にはまったく関与無く、加藤直樹が参加者に対してグループ保険に加入させていた事実もありませんでした。加藤直樹の暴言がテレビで全国に広められたことから、このように疑われてしまったということです。玄倉川水難事故(DQNの川流れ)が、保険金詐欺事件であるという噂はまったくの噂である、ということです。

玄倉川水難事故(DQNの川流れ)をめぐる裁判とその後

13人もの犠牲者を出した玄倉川水難事故(DQNの川流れ)ですが、この事件に関しての裁判はあったのでしょうか。

たとえば自然災害による事故の場合などでは、遺族たちが事故現場を管理する管理団体や公的機関などに対して管理の不手際などについての裁判を起こすことがあります。また生存者と犠牲者の間での裁判もままあります。

この玄倉川水難事故(DQNの川流れ)の場合も、生存者や遺族たちは裁判を起こしたのでしょうか。玄倉川水難事故(DQNの川流れ)をめぐる裁判と、その後について調べました。

訴訟を起こさなかった生き残りや遺族たち

玄倉川水難事故(DQNの川流れ)の生存者や遺族たちは、その後一切の裁判を起こしていません。もっとももし裁判を起こしていたとしても、リーダー格の加藤直樹の暴言などがテレビ放送で全国に知れ渡ってしまっているため、加藤直樹に勝ち目はありませんでした。

事故直後はワイドショーなどでは、加藤直樹のDQNな態度から行政に対しての救助の対応の悪さやダム管理の行動についての裁判をするであろうといわれていました。ところが、その後いくら時間が経っても玄倉川水難事故関係の裁判が行われたという記録が一切出てきません。

あくまでも噂の範囲ではありますが、これだけ醜態を晒してしまった加藤直樹なので、裁判などを起こしてこれ以上の騒ぎになることを避けたのではないかといわれています。

富士繁も裁判を起こしていません。これほどまでに会社名が世の中に出回ってしまったというのに、何も影響が無かったと考えるほうが不思議です。富士繁が会社名を出した報道関係を訴えた記録もありませんし、加藤直樹の愚公により会社名に傷が付いたとして裁判沙汰になっているとの噂もありません。

会社名を変更していない上に、業績向上していることも不可解とされていました。業務性質上、衰退するような産業ではありませんが、それでも会社名がDQNたちのイメージを持ったままでいることはプラスにはなっていません。会社名を変更しなかったことも、この事故に裏があるように思われてしまった理由の一つです。

訴訟を起こさなかった地方自治体

自然災害による事故であったとしても、被害者側に落ち度がある場合は裁判を起こされることがあります。よくあるケースは救助費用の請求をされるケースです。玄倉川水難事故(DQNの川流れ)では、4800万円もの公費が事故現場の地方自治体から捻出されています。

さらに神奈川県警は、同じ日に道志川で発生した別の水難事故1件とあわせて人件費だけで1億円がかかったと発表しています。

それではこれらが加藤直樹たちに請求されたのでしょうか。支払い義務についての裁判が行われたのでしょうか。このことについても、加藤直樹たちが請求されたり行政などから裁判を起こされたという記録がありません。裁判を起こすことは、その後の事故発生に抑制力を持つのですが、玄倉川水難事故(DQNの川流れ)では一切の裁判記録がありません。

富士繁の現在

株式会社富士繁は、今現在も操業中です。一般に、あまりよくないイメージがついてしまった場合は会社名を変更することが多いのですが、富士繁は会社名を変更していません。それどころか幾つかの業務に必要な登録・許可を取得して施設も充実させ、業務内容も広げています。

会社名を変更しないことで玄倉川水難事故(DQNの川流れ)とは無関係であることを主張しているのかどうかは不明です。富士繁戸塚工場周辺では、道路建設による立ち退きに関するトラブルが発生し、それ以前から産業廃棄物処理工場であるがゆえに、周囲への騒音や安全性について近隣住民と揉めています。

玄倉川水難事故(DQNの川流れ)が教えてくれた教訓

日本人はモラルが高いといわれていました。サッカー大会の後のサポーターたちのゴミ拾いなどが賞賛されたニュースもありました。こうした行動に大して、DQNな人は自分たちさえ良ければよいという考え方です。自分の基準だけで行動し、周囲への配慮はありません。

リーダーで生き残りの加藤直樹はDQNな言動を全国放送されてしまいました。事故のその後、謝罪会見を開いていればDQNの川流れとまでは揶揄されずに済んだはずです。ところがリーダーの加藤直樹はあくまでも生き残りの犠牲者として開き直ってしまいました。このことが、玄倉川水難事故がDQNの川流れといわれてしまう一番の原因です。

事故当時の精神状態は尋常ではなかっただろうと想像はできます。DQNな暴言は、その状況を考えて理解できたとしましょう。しかし、その前後の暴言はDQNといわざるを得ません。「テントを返して欲しい」「もっとうまいものを食わせろ」などという暴言は、事故の生き残りとなった加藤直樹に保険金詐欺の疑惑が生じても仕方の無い暴言でした。

また事故当時5歳だったことで記憶があいまいだからといっても、長女朝香がブログを書いたことは炎上を避けられないものでした。日記形式のものであったものの、被害者意識の高すぎるDQNな内容でした。直接名前を書いてはいないものの、内容から加藤直樹の長女であることは明白でした。

被害者意識を強調してしまうことは、玄倉川水難事故でDQNな暴言を吐き続けたリーダー加藤直樹の娘であり生存者である以上は慎むべき内容でした。

災害に対しての対応は、事故後すぐに検討・実施していくしかありません。玄倉川水難事故(DQNの川流れ)に関しても、救助方法の研究が課題でした。2004年に東京消防庁で発足した急流救助専門チームは、急流の多い日本だからこそ必要なチームです。

救助チームの技術の向上で生存者数が格段に上がるのは当然です。生き残りをかけて必死に耐える被害犠牲者が、短い時間で救助されるようになることは時代が求めていることです。生存者数を増やすための組織作り、技術革新などは今後も進化していきます。

事件・事故となると毎回問題になる報道のあり方です。玄倉川水難事故(DQNの川流れ)では、18人が流されるところまで放送されました。さらに25人が勤めていた会社名まで世間に知らしめました。生存者のその後の人生を考えると、報道のあり方について意見が分かれます。たとえ事故の直接の原因がDQNな人たちの自業自得であったとしてもです。

DQNな行動が問題視されたことは、今後の似たような事故発生への抑制力になったともいえます。毎年夏になると、この映像が注意勧告としての映像として使われます。非常識な態度が事故を招いたことに対しての反省材料にはなっています。

さすがに今はプライバシーに配慮する時代なので、顔をはっきりさせたまま放映することはありません。ところが当時は、顔をはっきり映し出したまま全国放送しています。DQNな人たちではあるものの、会社名まで世間に晒されたのです。

時代はSNSの時代です。一度拡散してしまった情報を回収することは難しいのです。会社名まで晒され、世間からDQNな人たちとレッテルを貼られた生き残りの人たちは、いまどうしているのでしょうか。

事件・事故の瞬間を捕らえたスクープ映像は貴重なものですが、生き残りや犠牲者、そしてその家族たちのその後の生活ということを考えると価値観の置き所に悩みます。

玄倉川水難事故(DQNの川流れ)が教えてくれた教訓のうち、もっとも考える必要があるのは災害時の指示系統や指示の効力です。警察や自衛隊や救助隊は警告は出せるものの、強制権を発揮して退去させるまでの権限が与えられていません。

もし、玄倉川水難事故(DQNの川流れ)において警察官や消防署員や自衛隊などの方たちに権限が与えられていたら、犠牲者は出なかったかもしれません。また権限により早めに退去させることができていれば、捜索にこれほどまでの費用はかからなかったでしょう。捜索にかかった公費は税金から賄われているのです。

行政は、素顔や会社名まで晒されDQNの川流れとまで揶揄された加藤直樹たちに配慮したため裁判を起こさなかったのでしょうか。むしろ二度と同じ事故が発生しないように、行政などは、加藤直樹たちに対しての裁判を起こすべきではなかったでしょうか。

玄倉川水難事故(DQNの川流れ)は、DQNな人間たちがあまりにも酷い結末を招いてしまった人災であったということです。もちろん、自然を甘く見てはいけないという教訓でもあります。熟知している人たちのアドバイスには素直に従うべきだという教訓でもあります。

生き残った加藤直樹の娘と息子は、その血を継いでやはりDQNな人間になっていたとも噂されますが、証拠は見つかりませんでした。犠牲になった13人の中にもイジメをしていたから因果応報だという情報もあったのですが、確証をつかめませんでした。生き残りの5人のその後についての情報は見つけられませんでした。

玄倉川水難事故は、DQNな大人たちが招いてしまった人災であったということでした。

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